村からの娘
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)愈々《いよいよ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)万ガ[#「ガ」は小書き]一
−−
新年号の『文学評論』という雑誌に、平林英子さんの「一つの典型」という小説がのっていて時節柄私にいろいろの感想をいだかせた。
民子というプロレタリア文学の仕事をしている主婦のところへ、或る日突然信州の山奥の革命的伝統をもった村の大井とし子という娘から手紙が来る。その手紙は「あなたがこちらへお出下さいましてよりもはや一年が過ぎました。農村は不景気の風に吹きまくられて、百姓はその日のパンにさえありつくことが出来ません。これから段々寒くなってゆくばかりでございます」というような書き出しで「ついては大変突然で申しかねますが私をあなたのお家の女中にでも使って下さるわけには参りませんでしょうか」というのであった。民子が自分の家庭の事情をも考え、はっきりした返事を出しかねているうちに、電報で明朝新宿へ着くから迎えに出てくれということになり、愈々《いよいよ》上京したとし子が民子の家庭で、一とおりならぬ民子の気づかいを引起しつつ暮す次第が、すらすらと巧に描かれているのである。
山奥の世間知らずで、物心づくとから左翼的な考えかたでだけ育てられた十六の娘の一本気で、非実際的な気持や姿がガスのひねり工合一つにさえ神経を用いなければならぬ都会の家庭生活の細々した有様の描写を背景としてまざまざ書かれている。良人仙吉とは文学の階級性についても違った考えをもっていて、過去においては信州のその村へも講演に行ったりした民子が、そういうとし子の出現につれて、彼女の当惑をどちらといえば揶揄《やゆ》する周囲の良人・良人の友達などに対する気がね、気づかいの感情もどこやらユーモアをふくんで、私は女らしい筆致でよく描き出されていると思った。
平林さんは、この小説を、旧ナルプの機械的指導の一つの反映、そういう指導が生み出した一つの娘のタイプとして観察し、「一つの典型」という題をもつけて書かれたらしく想像された。その考えかたについての論議をここでしようとは思わないのであるが、私はこの一篇の小説から、本当に田舎出のごく若い娘たちが急にこの東京の切りつめた都会生活に入って、どんなに様々の可憐な人にも語ることの出来ない心持を経験してゆくであろうかという事を、深く思いやったのであった。
新宿へ迎えに出た民子の後について朝の混雑した郊外の表通りを家へ向って来る道々、とし子は二三歩あるいたかと思うと、すぐに当惑したようにして立止ってしまうので、民子が心配してとし子のところまで小戻りして、
「どうしたの、気分がわるいんですか」
ときくと、とし子は、いかにもきまりわるそうに苦笑して静に頭を横にふった。
「いいえ、人間や自転車や自動車が、いくらでもくるもんであぶなくってどうにも歩けないんだが……」
そういう十六のとし子の心持も私を或る実感で打ったし、女中という、都会の小市民の家庭の中での一つの役割とその型とになかなかはまれず、主婦としての民子は、やっと一ヵ月も経って、とし子の態度が軟らかくなって来たのに些か安堵するというところも、はっきり都会の主婦の常識というものがうかがえて、私にいろいろのことを考えさせた。
東北の飢饉地方から、売られて汽車にのせられ、東京へ出て来る娘たちの年頃は、皆この小説に書かれている十六のとし子と同じ年かその下が多い。身売り防止会は、それらの田舎出の娘たちを一通り仕こんで方々の家へ女中として世話しているのであるが、その娘たちの心の中には、このとし子とは違うか、又全く同じような当惑や、型に入れぬ工合わるさがあるだろうし、多かれ少なかれ持っている田舎の朴訥《ぼくとつ》さ、一本気が段々くずされて都会に所謂《いわゆる》馴らされてゆく過程にも、痛々しいものがないとは決して云えぬことを、私は感じたのである。
来年も凶作があるかないかを予測するため、海へ船を出して天候を観測したりしている記事が大きい見出しに写真つきで華やかに新聞に出たが、あの報告で今年の秋を、みのりの秋と楽しく期待出来た人間は恐らく一人もなかったであろうと思う。東北地方の飢饉は、二三年前からのことで、問題は天候ばかりにはないことが既に誰にでも理解されている。同じ空の下でも、地主の田圃の稲の穂は実の重さで垂れたのである。
秋田の方の故郷で暮している鈴木清というプロレタリア作家の『進歩』に発表された通信は、東京の愛国婦人会や何かが、まるで農民が道徳をさえわきまえぬ者で娘を売るように口やかましくほんの一部の身売り防止事業などに世人の注意をあつめ、窮乏の真の原因とその徹底した打開策とを大衆の目から逸《そ》らさせ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング