からいうと、どうしても、私たちは「板橋事件」強制供出その他一つらなりの食糧問題解決への場面で起った現象をももうすこし細かに観察し、学ぶべきことがあると感じる。
第一、農林省は現に自分の懐の中に、官吏たちの団体行動をはらんでおり、それは食糧の人民管理を叫んでいるのに、本気で、農民に、強制手段で向う心算であろうか。
健全な常識は、この疑問に対して「まさか」と答える。まさか、政府も強制して買上げたからといって、おいそれと出て来る今年の米でないことは十分わかっているだろう。もし、そうだとするならば、第二の問が生れて来る。出来にくい相談と分っているものを唯さえ、無策無策で信頼を失っている今日の政府が、念入りに何故、農民に向って新しく出しかけるのであろうか。
わたしたちが、一人民として、大いに洞察しなければならない社会的なモメントはここの点にかかっている。一見、愚劣と思われ、誰しも反対すると思われる方策を、政府が強権によって発動させる、という、その技術上の意味を、わたしたち人民は見抜く必要があるのではなかろうか。
宮城のみならず、おそらく、日本じゅうのあらゆる農村で、強制供出案は、うけいれられまい。このごろの農村で、農民組合その他農民の自主的な団体のないところは少かろう。
この二つの条件は、日本じゅうの村々で、農民たちがこの問題を中心として集り、相談し、協議し、決定して、一つの一致した結論を導き出すだろうということを予想させる。一致した意見が、凡《およ》そ政府案支持でなかろうという点も見とおせる。
米が、二割しか集っていない。各大都市の人口は配給米をもって命をつないでいる。その米のストックが乏しいところへ、農民が強制買上供出反対で、米俵をつんで東京、大阪その他の駅に入るべき貨車が、きょうも、明日もと空っぽであるとき、大都市の住民の不安はいかばかりであろうか。重大な事態をひき起すであろう。その重大事態の核心をなすものは何かといえば、食糧の非常手段による調達であろう。住民の非常手段による調達というとき、この間まで日本人の頭に浮ぶのは、往年の米騒動ばかりであった。しかし、今日では、人民の食糧管理という観念が加って来ており、そこに、板橋区の実例があった。すこし、実際的に心の働く人民なら、ここのところに新しい社会的なものの生じていることを理解するのは当然である。
仮に、そういう切迫した事態に立ち至ったとき、或る区に食糧管理委員会が出来て、板橋でやったように、どこかに隠匿されている食糧を発見し、ああいう風に特配したとする。その場合、警視庁は、その方法を適当と認めていないのであるから、何かの形で取締ろうとするであろう。そんな場合の民衆が、単純に取締られるものでないことは、ひとも我も知っている。小競りあいも、空腹が先に立っておれば、荒々しくなりかねない。双方が力ずくになったと仮定して、そのごたごたはどういう法律上の行動として呼ばれるのだろうか。このことを、私たちは、十分の上にも十分、考えめぐらして見なければならない。
市民が、食糧問題にからんで、ごたついたとき、当局が、それに対して名づける罪名に事欠いていようとは、決して決して思われない。
法律だけで、現実の辛苦は解決しないから、その対象となった市民たちは、勿論承服しかねるのだが、そこに人間の心理の機微がある。承服しない市民の感情が、どこに向うだろう。真直《まっすぐ》、実際の責任者である政府、支配権力に向うだろうか。そこまで万遍なく明快であろうか。まだまだそこまでが一般水準とは言えない。どうも、百姓が米を出さないからじゃないか、というところへ流れよりそうである。
そうなったとき、農村ではどうかと想像してみる。農村とても、決して平穏に彼等の拒絶をしかねているであろう。当然、ごたつく。その結果、次の当然として、強制買上供出としての強権以外の強権が発動するだろう。あちらも、こちらも、大ごたつきに揉めて、つづまるところは、何かと云えば、それを、きっかけとして、農村では農民の自主的な組織や活動が圧殺され、都会では市民が所謂《いわゆる》鎮圧されてしまう。やっと全人民が一歩をふみ出した民主の試みは、二歩と歩まぬうちに、まことに見事に、旧勢力である反動政府のもくろみどおり、足を折り、手をもがれて、人民はまたもや、自分の声を失ってしまうのである。そういう不幸がおこったとき、最悪の点は、農村人と都会人との感情の疎隔である。この疎隔さえあれば、支配権力にとってこわいことはない。何故なら、人民の結集する能力は、最も根本で二つに裂かれてしまうのであるから。
このような考えのめぐらしかたは、或人にとって、あまり裏まで穿ちすぎた辛辣さと思えるかもしれない。けれども、決して穿ちすぎではない。今日の現実の内包している
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