人間性・政治・文学(1)
――いかに生きるかの問題――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)それでそれを拘束する手枷[#「それでそれを拘束する手枷」に傍点]
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日本の現代文学は、もっともっと、われわれの生きている現実の歴史の深さ、鋭さ、はげしさにふさわしい文学精神と方法との上に立て直されなければならない。この欲求は、こんにちのヒューマニティーの欲求として、公然と語られるものとなって来ている。
しかし、この、現代文学は変らなければならないし、遠からず大いに変らずにはいないだろうという予感は、それが公然たる一般の感想となって来るにつれて、それぞれの文学者(小説家、詩人、戯曲家、評論家をこめて)による予感のうけいれかたが、それぞれにちがって表現されはじめた。
その一つの例として、最近発足した「雲の会」がある。岸田国士、福田恆存、三島由紀夫、木下順二そのほか相当の数の文学者たちの集団である。小説や評論の現在の状態に感じられている一種のゆきづまりを、「もっと広く、窓を外に開こうとする要求がみられているし」「芝居が文学の広い領域から栄養を摂らなければならんということは、やはり芸術文学のほかの領域でも同じことが云える時代だと思う」(岸田国士、展望、十一月号座談会)という共通の見解の上に結ばれているのが「雲の会」である。
この基本的な線には、参加しているそれぞれの人たちの文学的見解から生れたこまかな内容が加わっていて、三島由紀夫は次のような動機を語っている。
「小説には詩のような韻律的拘束がないし、またはっきりしたオルソドックスの小説の拘束がないために[#「オルソドックスの小説の拘束がないために」に傍点]、それを破ろうという情熱がない[#「それを破ろうという情熱がない」に傍点]。それでそれを拘束する手枷[#「それでそれを拘束する手枷」に傍点]・足枷みたいなもの[#「足枷みたいなもの」に傍点]、それを探していると[#「それを探していると」に傍点]、はからずも芝居にぶつかったのです。つまり芝居は、どうにも仕方のない形式上の拘束というものをもっている。それを衝いて行けば、何か自分の情熱を形式で拘束して[#「何か自分の情熱を形式で拘束して」に傍点]、掻き立ててゆくのに[#「掻き立ててゆくのに」に傍点]非常に便利なものだと思ったし、それから、そういうものを足掛り、手掛りにし、中心にして、まだ形をなさない日本の小説に形を与[#「日本の小説に形を与」に傍点]えてゆく――大体そういう気持なのです」(同上)
福田恆存も、芝居が「便利なもの」であるという見解では三島由紀夫とほとんど一致している。「小説の場合には、ウッカリ我々がゴマカされているものが演劇の場合にはゴマカシがき[#「ウッカリ我々がゴマカされているものが演劇の場合にはゴマカシがき」に傍点]かない。そういう点が『便利なもの』である。」「現代では文学や小説が段々平面的になった」それの「立体化ということは、ある意味においては、全人性の獲得ということとも通ずるのではないか」(同上、傍点筆者)「雲の会」という名も、おそらくは、ギリシァ喜劇「雲」への連想に由来しているのだろう。
こんにちの日本の社会では、現代人の発想として、さまざまの具体的な試みが活溌に実行[#「実行」に傍点]されてこそ結構な時期である。まして、すべての新劇団が、一九五〇年は五・六月ごろから著しく財政困難に陥って、熱心で技量のある俳優たちが無給で奮闘している現在、芝居に新しい息吹きが加えられることになれば、それはいいことだと思う。ジャーナリズムのるつうさ[#「るつうさ」に傍点]と「非常に職業化して来ている日本の小説壇」(小林秀雄)の気風に虚無感を誘い出されて、小説が「拘束」をもっていないということに苦しみはじめた若い能才の作家・批評家たちが、「ゴマカシの利かない」演劇へ新しい芸術意欲をかけて行こうとすることも、そう感じている人々にとっては無意味でなかろう。(もっとも小説や評論が、そんなにゴマカシのきくものであり、そのように様式からの拘束がないと、もてないものであるという感覚そのものが一つの異常であるが)
その結果いかんにかかわらず、「雲の会」のような脱出の角度と形態は、その会にあつまった人々に種々の試練を与えて成長させるか、或いは空中分解をさせてしまうかするであろうほかに、直接その会に関係をもっていない一般の人たちに、多くの問題を示唆する。そして、たとえ「雲の会」そのものが地上にふかく舞い下りて、地の塩とならないにしても、その刺戟から更に新鮮な機運がわき出て、一九三三年ごろエリカ・マンがナチス政権のもとで組織していた「ペッパーミル」(胡椒小舎)に似た演劇団が生れるかもしれない、そういうところへまで思いをはせれば、「雲の会」もそれとしての限界のうちに、おのずから一つのフェノメノンであり得るかもしれない。
だが、芸術の本質からいまの文学のゆがみを照し出そうとするその企ての第一着である「キティ颱風」は、自他ともにあれでは駄目なものと考えられ、「芝居というものはあんなものでは困ると思う」(小林秀雄)と座談会で語られて、その言葉は笑声とともにうけがわれている。作者自身によって「キティ颱風」には「日本人の、たとえば社会性のなさとか、その他色々な弱点が皆出ている訳です。」と云われている。「つまり芝居に成りたたないような日本人の生活や心理の弱点を、皆まとめて芝居にこしらえちゃったものなのです。従って、あれは一度っきりのもので、あとはあの手ではゆかないし、あれではほんとうの芝居というものではないと思うのです。」
これを客観的に云いあらわしてみると、「キティ颱風」はいまの文学のゆがみに解決の方向を示した作品ではなく、社会と文学にあるゆがみそのものを反映したにとどまる、という自己批判としてよみとられる。
伊藤整は、「芸術の本来の性質から、」「日本の実作家のペンと紙との間に入りこんで、そこでの結びつきなる創作行為そのものを変える」何かの歯車の発見について、不断の関心を示している作家の一人である。「イデエ・近代の論理、人間の組み合わせかたとしての秩序の認識のないところでは、皮膚感覚と暴力のみが実在する。その二つのものの合成である現在の日本文学は、日本そのものの、反映なのだ」、カミュの「ペスト」、オオウェルの「一九八四年」、ゲオルギゥの「二十五時」などが、日本の中堅作家と同年代の外国作家の手になるものであることを見れば「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」(「歯車の空転」)伊藤整のこの感想は共感される。彼に「いまの文学のゆがみ」は明らかに意識されている。「芸術の本来の性質からいまの文学のゆがみを照し出そうとする企て」をもつ作家の一人である。いまの文学のゆがみそのものを、その一文の中でアクロバット風に表現しているにすぎないことを痛ましいと思う。一人の作家伊藤整がいたましいというような高飛車な感想ではなく、日本よ! こういうもの云いのある一九五〇年の日本よ。小説を書くかかないにかかわりなくそこに生きているわたしたちみんなよ! と痛ましいのである。
近代的な小説の成立という問題を、わかりやすく、しかし情熱をもって、わたしどもの生きているきょうのこころに引きつけて吟味しようとする意欲は、抑えがたい。こんにち、「明らかに盲目と無力という言葉が日本の作家に冠せられても仕方がない」にしろ、「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから、近代風なイデエの操作と実作とは歯車が合わないのだ」(同上)という、現状解明の場にとどまりかねる思いがある。「巨大な冷酷な秩序のヒダにはさまれてもがく虫のような存在として自己を意識し」て、そこに伊藤整の人間及び文学者としての存在感が定着しきれるものならば、どうして彼自身、きわめて具体的なファイティング・スピリットをもって「チャタレー夫人の恋人」の告発状の中には、検察当局がその作品をちゃんとよんでいない節があることを公表するだろう。ヒダにはさまれてもがくどの虫も、権力によって発せられた告発状そのものが、訴訟法に反してつくられているという事実をもって、法廷にたたかう決意を示したためしはない。
戦争に反対し、戦争の挑発に抗議する現代人の要求は、ほとんどすべての文学者の心底にある。しかし、平和愛好の公然たる意志表示、何かの行動にあたって、政治的になる[#「政治的になる」に傍点]ことは、意識してさけられつづけている。「チャタレー夫人の恋人」の起訴問題は、一面ではそのようなこんにちの日本の文学者の社会行動に関連してきわめて意味ふかい他の一面を語っている。
「チャタレー夫人の恋人」の問題に関して、一部には、つまりは、翻訳家たちに共通な経済問題の擁護である、という解釈がある。こういう経済主義的な考えかたに、わたくしはくみすることができない。また、「皮膚感覚」によって創作している日本の作者にとってひとごとでないからだという、シニズムにも賛成しない。「チャタレー夫人の恋人」の問題で、日本の文学者が総立ちになったとすれば、それは、人類の理性の防衛であり、権力の暴威に対する人間、文学者としての抗議である。そこに文学者として文学者でない一般社会人にアッピールしうる大義名分がある。その大義名分によって、文学者たちも市民として、事実にもとづかない根拠によって圧迫して来る法律とたたかう必然が人々に共感される。文学者と世界平和運動というスケールでは、そのことに関する公然たる意志表示や行為を政治的であるとしてさけがちな日本の文学者も、この作品の翻訳に関して侵略して来た告発、思想と言論に対する権力の圧迫には、面をそむけずにたたかって、捏造を拒否しつつある。
伊藤整が、七月一日の朝日新聞に「『チャタレー夫人の恋人』の訳者として」書いた一文は、はなはだ暗示にとんでいる。彼は云っている。「文学者や思想家が、既存の社会通念に無批判に服従することでのみ仕事をすべきだとする考えは、人類に進歩があるべきであるならば、有害な考えである。既存の社会通念を批評し訂正するという思想家や芸術家の働きが、現在の文化を形成して来たのである」と。
この毅然とした数行には、この作家が断定しにくい問題に対したときに示す機智・燕がえしの修辞法は一つもない。真正面から、歴史の現実は、かくある、という事実を憚らず語っている。これは文学の言葉である。同時に政治の言葉でもある。なぜなら、政治は文学現象にタッチしないではいないし、国家権力の表現として出て来た告発問題に抗議して闘うことは、文学者として、最も直接に政治闘争をしているということ以外ではない。どういう形を通して来ても政治とは、権力に関する諸課題なのだから。
自身の無智を意識しないほど無智な今日の権力に対して、憤りをもって頭を高くもたげている伊藤整が、朝日に発表した文章の冒頭の数行にこめられている真実を、わたしは、この作者が近代的な小説の成立にふれてかいている「歯車の空転」に補足したいと思う。「既存の社会通念」の内容は複雑広汎であるけれども、既存の社会通念の一つとして、「既存の文学というものについての通念」があり、また他の一つとして「政治というものについての既存の通念」もあることは否定できない。そして、そのような既存の社会通念とたたかって、人類の生活と文化とを進歩させて来たのが芸術家、思想家たるものの才能に天賦の義務であるならば、こんにち、わたしたちは確信をもって「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから」近代の理性或は理念の操作は日本文学の現実の創作とくいちがうものだという「既存の通念」に疑いをさしはさんでよいのだと思う。
「歯車の空転」のなかで、伊藤整は「この時代に生きる作家の運命というものを」「作家はその不調和を外界と人間の衝動の中にあとづけることによって、美という仮りの調和
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