似た演劇団が生れるかもしれない、そういうところへまで思いをはせれば、「雲の会」もそれとしての限界のうちに、おのずから一つのフェノメノンであり得るかもしれない。
 だが、芸術の本質からいまの文学のゆがみを照し出そうとするその企ての第一着である「キティ颱風」は、自他ともにあれでは駄目なものと考えられ、「芝居というものはあんなものでは困ると思う」(小林秀雄)と座談会で語られて、その言葉は笑声とともにうけがわれている。作者自身によって「キティ颱風」には「日本人の、たとえば社会性のなさとか、その他色々な弱点が皆出ている訳です。」と云われている。「つまり芝居に成りたたないような日本人の生活や心理の弱点を、皆まとめて芝居にこしらえちゃったものなのです。従って、あれは一度っきりのもので、あとはあの手ではゆかないし、あれではほんとうの芝居というものではないと思うのです。」
 これを客観的に云いあらわしてみると、「キティ颱風」はいまの文学のゆがみに解決の方向を示した作品ではなく、社会と文学にあるゆがみそのものを反映したにとどまる、という自己批判としてよみとられる。

 伊藤整は、「芸術の本来の性質から、」
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