ことに関する公然たる意志表示や行為を政治的であるとしてさけがちな日本の文学者も、この作品の翻訳に関して侵略して来た告発、思想と言論に対する権力の圧迫には、面をそむけずにたたかって、捏造を拒否しつつある。
伊藤整が、七月一日の朝日新聞に「『チャタレー夫人の恋人』の訳者として」書いた一文は、はなはだ暗示にとんでいる。彼は云っている。「文学者や思想家が、既存の社会通念に無批判に服従することでのみ仕事をすべきだとする考えは、人類に進歩があるべきであるならば、有害な考えである。既存の社会通念を批評し訂正するという思想家や芸術家の働きが、現在の文化を形成して来たのである」と。
この毅然とした数行には、この作家が断定しにくい問題に対したときに示す機智・燕がえしの修辞法は一つもない。真正面から、歴史の現実は、かくある、という事実を憚らず語っている。これは文学の言葉である。同時に政治の言葉でもある。なぜなら、政治は文学現象にタッチしないではいないし、国家権力の表現として出て来た告発問題に抗議して闘うことは、文学者として、最も直接に政治闘争をしているということ以外ではない。どういう形を通して来ても政治とは、権力に関する諸課題なのだから。
自身の無智を意識しないほど無智な今日の権力に対して、憤りをもって頭を高くもたげている伊藤整が、朝日に発表した文章の冒頭の数行にこめられている真実を、わたしは、この作者が近代的な小説の成立にふれてかいている「歯車の空転」に補足したいと思う。「既存の社会通念」の内容は複雑広汎であるけれども、既存の社会通念の一つとして、「既存の文学というものについての通念」があり、また他の一つとして「政治というものについての既存の通念」もあることは否定できない。そして、そのような既存の社会通念とたたかって、人類の生活と文化とを進歩させて来たのが芸術家、思想家たるものの才能に天賦の義務であるならば、こんにち、わたしたちは確信をもって「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたぬ感覚によるのだから」近代の理性或は理念の操作は日本文学の現実の創作とくいちがうものだという「既存の通念」に疑いをさしはさんでよいのだと思う。
「歯車の空転」のなかで、伊藤整は「この時代に生きる作家の運命というものを」「作家はその不調和を外界と人間の衝動の中にあとづけることによって、美という仮りの調和体を作ることしか出来ない」ものとして受取っている。ジェームス・ジョイスやD・H・ローレンスから多くのものを摂取して来た一人の日本の文学者として、以上の言葉は、その人の真実を告げている。しかし、これらの表現は「この時代に生きる作家の運命」のすべての面にふれているだろうか。
文学のために――人類の理性の発展のために、国家権力の圧迫とたたかわなければならなくなった文学者伊藤整のこんにちの現実。そして、その伊藤整の現実を、おのれの生活と文学にもつながる問題としてひろい線の上にうけとることのできるようになった日本の文学者たちの社会に対する生存感。よしや、それらの文学者のうちに、盲目と無力の要素が少なからず存在しているにしろ、やはりそこには、一九三三年には見られなかった日本の一九五〇年代のリアリティーがある。
権力は常に保守の要素をもつ。文学の本質は、人間性のうちにある抑えがたい展開と発見への欲求に立っている。文学・思想の問題をはさんで行われる権力と人間性の係争では、権力がつねに勝利において敗北して来た。だからこそ、伊藤整が信念をもって述べているとおり、人類の進歩がなりたって来たのだった。
これらの人間として当然な理性の主張は、「外界と人間の衝動の中にあとづけることによって」可能だったのだろうか。告発文の違法や非真実性は、人間の衝動の中にあとづけられたのではなかったろうと思う。
思えば不思議なことである。現代文学は、衝動という言葉に、理性のやみがたい抵抗と、その行為までを、包括しようとしているのだろうか。
伊藤整が、「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体をつくることしかできない」日本の文学者の運命をいうとき、その文脈の底には、「日本の文学は日本そのものの反映なのだ」「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたず感覚によるのだ」という、きょうではもう半過去になりつつある事実に執しすぎているために、感傷をさけがたい知性の響きがある。「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体」というとき、この文学者は、仮りでない美が人類のうちにあることを知覚しているのだ。こんにちの世界文学の状況において、「仮りの調和体」とことなった強壮な、人類に根ざした美は、外国作家の文学の中にしかあり得ないとするならば、それは、日本という島の国が面している明日の運命について、あまりに単純な見かただ
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