と思う。日本のいまのままの現代文学は、歴史の将来のある期間に、とび散ってしまうことになるかもしれない。そして、ふたたび日本の民族が自身の文学を生み出すとき、それは、もはや「感覚による」基本的方法ではあり得ないだろうから。
 このような文学の変革は、きょうの日本の昼夜をとおして、あの現象、この現象のうちに見えつつ、かくれつつ、既にあらわれている。プロレタリア文学運動があったこと、民主主義に立つ文学運動があること、それだけを平面的に文学陣営別にわけてその間でのままごとを許さない大きい底からの力で、歴史の舞台は、わたしたちみんなをのせたまま、文学的営みの各種各様をのせたまま、ゆるやかに、しかも急速に旋回しつつ、移っている。
 きょうに予感されるこの推移と変革の過程では、一九四五年八月からのち、日本の文学評論の上に活溌に云われはじめた「後進日本」の知性を制約している社会条件の解剖さえも、「既存の通念」の一つと化しはじめている。なぜなら、わたしたちは、「おくれた日本」について、身にしみてわからせられて来たし、したがって、もう「おくれた日本」の、感覚にたより主情に流れる生活と文学の基本的方法によって、美という仮りの調和体を構成してゆくことにはあきたりなくなっているのだ。日本を反映しつつも、日本の可能を展望する文学が欲望される。この欲望ははげしく感覚されるもので、人間に理性を肯定するかぎり、生の欲望とよべるものである。そして、何とおもしろいことだろう。内容の範囲をひろげてつかわれているらしい伊藤整の衝動という用語をもって表現すれば、歴史に内包するこのような新しい文学への潜在的な衝動こそ、かえって多くの人間的欲求をもつ文学者の頭脳に反射作用し、逆に日本の知性への不信を表明させもしているのだろうと思われる。

「歯車の空転」の中に、「現代の社会人としての生活意識を確立して創作に立ちもどるべきだとするオオソドックスな考えかた」として、わたしが、社会主義リアリズムの創作方法にふれてのべた考えがとりあげられている。これは、もうすこし正確に表現された方がいいと思う。わたしは、先ず「生活意識を確立して」それから、「創作に立ちもどるべきだ」という段階をもった考えかたをしていない。こういう風にイデオロギーを先にたてて、あとから創作をつけてゆく考えかたは、プロレタリア文学運動時代の考えかたである。こ
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