体を作ることしか出来ない」ものとして受取っている。ジェームス・ジョイスやD・H・ローレンスから多くのものを摂取して来た一人の日本の文学者として、以上の言葉は、その人の真実を告げている。しかし、これらの表現は「この時代に生きる作家の運命」のすべての面にふれているだろうか。
 文学のために――人類の理性の発展のために、国家権力の圧迫とたたかわなければならなくなった文学者伊藤整のこんにちの現実。そして、その伊藤整の現実を、おのれの生活と文学にもつながる問題としてひろい線の上にうけとることのできるようになった日本の文学者たちの社会に対する生存感。よしや、それらの文学者のうちに、盲目と無力の要素が少なからず存在しているにしろ、やはりそこには、一九三三年には見られなかった日本の一九五〇年代のリアリティーがある。
 権力は常に保守の要素をもつ。文学の本質は、人間性のうちにある抑えがたい展開と発見への欲求に立っている。文学・思想の問題をはさんで行われる権力と人間性の係争では、権力がつねに勝利において敗北して来た。だからこそ、伊藤整が信念をもって述べているとおり、人類の進歩がなりたって来たのだった。
 これらの人間として当然な理性の主張は、「外界と人間の衝動の中にあとづけることによって」可能だったのだろうか。告発文の違法や非真実性は、人間の衝動の中にあとづけられたのではなかったろうと思う。
 思えば不思議なことである。現代文学は、衝動という言葉に、理性のやみがたい抵抗と、その行為までを、包括しようとしているのだろうか。
 伊藤整が、「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体をつくることしかできない」日本の文学者の運命をいうとき、その文脈の底には、「日本の文学は日本そのものの反映なのだ」「日本の芸術の基本的方法はイデエの根をもたず感覚によるのだ」という、きょうではもう半過去になりつつある事実に執しすぎているために、感傷をさけがたい知性の響きがある。「美という仮りの[#「仮りの」に傍点]調和体」というとき、この文学者は、仮りでない美が人類のうちにあることを知覚しているのだ。こんにちの世界文学の状況において、「仮りの調和体」とことなった強壮な、人類に根ざした美は、外国作家の文学の中にしかあり得ないとするならば、それは、日本という島の国が面している明日の運命について、あまりに単純な見かただ
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