堕落せよという声は、多くの人を物見高い心持から引きつける。
ところで私達は、性的経験の中にだけ人間性の実在感があるという観念について、一つの、まったく単純な質問を出したいと思う。もし坂口安吾氏がいうように、ぎりぎりの人間的存在が性的交渉の中にだけ実感されるならば、何故坂口氏自身、こんなにたくさんの紙とインクを使って、それを小説として表現しなければならないのだろうか。この質問は、単純だけれど深い意味を持っている。何故ならこの文章の始めで私たちが見てきたように、我々の祖先の男女たちは、全く生物的に男と女のからまり合いの中に生命の最頂点の自覚をもってきた。然し、こういう生物的な人々は、小説は書かなかった。唯満腹の後の満足の叫び声としての歌、雌としての女の廻りに近よったり遠のいたり飛び上ったりする一種の踊り、そして最後に彼等の生活の核心であった性的祝典がおかれる。彼等は実際性的行為の中に実在したのだ。坂口安吾氏がそれ程熱中して性的生活の中にだけ人間的実在を捕えると言いながら、その経験に負けない熱中をもって、或いは性的行為の幾倍かの人間的エネルギーを傾けて、それを文学という様式を通じて、仮にも
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