会に存在するようになるにつれて、そのふやし手であり護り手である男の父系制度が確立してきた。最近までの日本のように強い封建性の影響の残っている国では、父権は悲劇的な威力をふるって一家を支配した。父権につれて尊重され始めた家系というものがその利害や体面のため、同族の女性をどれほど犠牲にして来たかということは、日本の武家時代のあわれな物語の到る所に現れている。ヨーロッパでも家門の名誉ということを、その財産の問題とからめて極端に重大に視る習慣のあったスペインやローマの貴族の間でどんなに悲劇があったかということは、「ローミオとジュリエット」一つを見てもよくわかる。スタンダールが書いている「カストロの尼」のおそろしい物語は、結局はローマ貴族の家門の悲劇であった。同じスタンダールの「パリアノ公爵夫人」という美しくもの凄いロマンスは十六世紀のイタリヤ法王領内で起った悲劇であった。これらの中世のおそろしい情熱の物語、情熱の悲劇は、当時絶対の父権――天主・父・夫の権力のもとに神に従うと同じように従わなければならなかったスペインやイタリヤの女性たちの胸の中に、もう「人間」が目覚めはじめてきていた証拠である。教会と父権とが彼女たちに与えた現世の主である夫に対して、彼女たちは厳しくしつけられていた通りに貞潔の誓を立てながらも、もう唯の雌ではなく人間の女性となってペトラルカの詩も歌うようになっている。彼女たちは自分たちの生涯にとって不幸にして幸福な瞬間として、良人以外の男性に好もしさを感じることを押えきれなかった。近松門左衛門は彼の横溢的な浄瑠璃の中で、日本の徳川時代の社会の枷にせかれて身を亡す人間らしい男女の愛の悲劇を歌った。カルメンの物語でばかりスペインを知っている人々にとって、またダンテとベアトリチェの物語だけでイタリヤの心を知ったと思う人は、これらの国々で不幸な愛人たちが自分たちの幸福への願望と共に流した血潮の多量なことに心から驚かずにいられないだろう。こういう事情の中では結婚も家庭も母となることさえも天主の定め給うた「運命」として受けとられた。人間らしい自発的な選択や愛の歓喜や母の喜びなどというものが、万一「家門」の必要と一致するようなことがあれば、若い女性はその意外さに寧ろおののいたであろう。
封建社会は徐々に近代の資本主義の社会に発展してきた。新しい社会のエネルギーに対して、その経済的活動の上にも、政治生活の上にも絶対の権力をふるってきた僧侶貴族一家一門の首領たちの権威は、彼等のやり方と共に若い時代にとって重荷になってきた。発展を阻むものになってきた。近代の歴史の担当者として現れたブルジョアジーは、王権を否定して市民(ブルジョア)の権利を確立すると共に、ルーテルを先頭に立てて、法王に統率され経済的政治的に専制勢力の柱である天主教の仕組を否定した。そして、市民一人一人の精神の内に在る神としてのキリスト教新教を組織した。そして権力のために犠牲にされることのない市民の個々の家庭の尊厳を主張しはじめた。同時に両性の清らかな愛による互いの選択と、その神の嘉《よみ》し給う結合の形としての結婚を主張した。
ところでこの「神聖なる結婚」「純潔なる家庭」といいながら、資本主義社会の冷酷な利害関係と、持つ者持たない者との関係によって、現実にはどんな矛盾がそこにあらわれたかということは、夏目漱石が深い知識と研究で物語っているイギリスの十八世紀の文学史を見るとよくわかる。世界で最も早く産業革命を行い、市民の権利を確立させたイギリスは、新教の本場となった。従ってイギリスでは、特別にこの神聖な結婚と純潔な家庭生活という観念が流布して、偏見にまで高まった。その「神聖な結婚」はどんなに多くの場合男女双方からの打算を基礎にした選び合いであり、時には「買いとられた花嫁」を教会が「神聖な結婚式」で祝福していたかということはイギリスの有名な諷刺画家ホーガースの作品に辛辣に示されている。中流的なイギリス人の家庭で体面と打算とを両立させた「ちゃんとした結婚」をするためにどんな滑稽なひそひそ騒ぎが演じられるかということは、ジェン・オースティンの作品を見てもわかる。彼女の書いた「誇と偏見」は彼女のような所謂《いわゆる》ちゃんとした「淑女」でさえもどんなに「ちゃんとした結婚」への騒ぎに対しては皮肉と憐憫とを感じていたかを語っている。またイギリスの最も傑出した作家の一人、サッカレーの作品はその傑作「虚栄の市」の中で、光彩陸離と、なり上り結婚のために友情も信義もけちらかして我利をたくらむやり手な美しい女性を描いた。家庭の純潔が言われても、社会がこれらの家庭の純潔を全うさせるだけの条件を一つも備えていなかったことはオルゼシュコの「寡婦マルタ」の哀れな生涯がまざまざとしめしている。それどころか
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