ない。だからこそ、小説として書く。小説は文字標式による精神活動の高度な表現である。近代小説はやっと十八世紀になってその一歩を踏み出したのである。
日本の婦人は様々の形で非人間的なモラルに縛られてきた。恋愛とか結婚とかいう問題について受身であったばかりでなく、性生活そのものについての理解がほとんど暗黒のまま封鎖されていた。今日一時に扉が開いて、性的な問題は公然と取り上げられ始めたけれども、今日の青春がおかれている事情を見れば、そこにはそれぞれの形での春の目覚の悲劇があるように思われる。用意された知識も分別も無いままに、戦争中のあの楽しさを全く奪われた生活の檻から離され、青春はドッとばかりに溢れ出した。何に向って? どういう喜び? 何をどういう風に建設しようとして? ところがここでも、崩潰された生活安定と楽しさを喜ぼうとする激しい欲望がぶつかっている。はしゃぐことをふざけることをいつも禁じられてきた日本の娘が、今日町で、公園で種々の生活の隅々で、ひたすら笑うことをはしゃぐこと(有閑に楽しむこと)を渇望している姿は、その明暗さの錯綜によって深い問題を提出している。こういう今日の一部の生活感情にとっては「有閑に楽しむ」ことと「堕落を恐れない」こととは自然に結びついている。過去の恋愛だの結婚についての辛辣な罵倒はなぜ彼女たちにとって心よいかといえば、第一目前にそんな美しい恋愛だの結婚だの家庭生活だのがないことを知りぬいてそのことを悲しく思う心を、ふてくされて、居直ってしまっているから。それは親や兄の云いなりに否応なし形ばかり「神聖」な性的生活の、本質には同じような堕落に突き入れられるくらいなら、女も男と同じ感情で、自分から選んだ堕落の道に進む方がまだ痛快なだけましだとする点にあるだろう。
ところがこの感情の自主的ということにやはり一つの疑問がある。坂口氏のデカダンス世界観の中では、女というものは唯男に対する性器的な存在だけであって、人間としてまた社会生活者としてもっている他の種々の条件や問題は存在しないとされている。もしかりに自主的な堕落の辛辣さを心から感じようとするなら、彼女はこの点で非常に迷惑な堕落論者の独断にぶつかるだろうと思う。何故なら、少くともその女性は人間としての自主的な選択、自主的な好みによって堕落の道をえらび、性的にも結ばれて行こうとしているのだろうのに。
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