さ、諧調における明暗の濃さ、力感のつよさなどを追求するのはむしろ必然だと思う。われわれは、丈夫な頸骨と眼力とをもって、すべての古典作家から滋養をとろうとするのである。が、そのやりかたは、古典作家、たとえばドストイェフスキーなどが癲癇という独特な病気をもちながら、彼の生きた時代のロシアの歴史の制約性と、自身の限界性によって描いた作品をそれなり随喜鑽仰することではない。彼の芸術的現実に現れている深刻な矛盾についても今日に生きているわれわれの目で分析し、矛盾の相互作用をあきらかにして、その連関の上に、芸術品としての美も魅力の性質もあきらかにしてゆくべきであろうと思う。
この座談会ではイデオロギー批評とその他の批評、作家的批評とが二様にわけてつかわれた。主として創作上の技術などについて追求しようとする作品の見かたがイデオロギー的でない、作家の役に立つ批評としていわれている。しかし会話のやりとりの間ではイデオロギー的批評の性質は分明にされなかった。これは、果してどういうものであろうか。
たとえば橋本正一氏がいっているように、自身の創作の実際にあたって、作家は、他の作家によってかかれたある作品
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