らしい。こじきの太郎とか王子のジョージとかより先に、おおかみと鶴、兎にたぬきなんかを持ちだして、話をすすめて行く形である。
 アレゴリーの従来の利用価値は、いろいろあったにしろ、一部の事実として聞きてに聞きて自身や話の中の人物の階級性なんかまで考えさせずに、いいたいことをスラスラいって聞かせるというところにあったことは確だ。
 だから、その中に現れてくる主人公の行為も、具体的であって、実は具体的ではない。
 兎と亀のかけくらで、兎が油断して昼寝したり、亀が身の程を知って、ノタノタ一生懸命に歩きつづけるということは、この世の中に確にある行為だ。けれども、何年、何の時代に、どういう情勢のもとに起ったことだという意味での具体性のないのが、アレゴリーの中の行為の特性である。
 ところで、ごく簡単にしらべて、こういう特徴を見つけたアレゴリーがプロレタリアの文学として、実際どのくらい役に立つものだろうか。
 実際の例をとって考えて見よう。桃太郎の話は、たれでも知っているから、ちかごろ階級的童話の初歩的試みとして、そのつくりかえが行われている。
 プロレタリアートの文学に、まず階級性のはっきりしない
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