言ゆっくりと、ソヴェトの社会主義なんかは「インチキ」といわれました。どんな客観的理由も説明せず、三十年間の社会主義社会建設の歴史をもって今日に来ている人民の社会を、「インチキ」と断言したことに対して、デマゴギストという印象を与えられなかった人はないでしょう。どんな権力の意識がこの人の背後にあれば、あのような客観性のない暴言を吐き得たのでしょう。
田辺元氏の「無」の哲学は、戦争中は「無」の独特な融通性によって侵略戦争に相応したし、一九四五年の冬から天皇制論のやかましかった頃には天皇制護持のための「無」と変化しました。サルトルが流行したら「無」は実存主義によって語りだされました。何とジャーナリスティックな、かんのいい「無」でしょう。田辺哲学の読者は、この資本主義社会に発生した東洋的な「無」の哲学が、われにもあらず権力と商業主義に流され、このように「無」の流転する姿を、哲学の破綻そのものの姿としてみているでしょうか。
日本の歴史学は、まだ大塚史学の伝統をとりのぞいて正しく科学としての日本の歴史学に発展するところまでいっていません。『国のあゆみ』『民主主義』読本に対する監視と批判は、決して
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