の男女が、馬よりも安価な戦争資材として扱われなければならなかった過ぎし日のことをまざまざとおもいおこさせた。あの日の命令者は、人類の平和にたいする罪悪的命令者であったということを、彼らの有罪訴因として読みあげられた十数年間にわたる彼らの行為のかずかずからあらためてこころにうちこまれた。
人類にたいして犯された侵略的な謀議の罪はさばかれた。けれどもそれではすまないものがのこっている。それは、彼らのひきおこした戦争によって生活の道をこわされ、生きてきていた道を失わさせられた数十万の人々のかたわ[#「かたわ」に傍点]にされた人生である。手足をもがれた人々の運命がある。孤児と寡婦の人生がある。戦争の惨禍というものの人間的な深刻さは、侵略謀議者がどのように罰せられようとも、それでつぐないきれない人民生活の傷がのこされるからだ。人が人の命をうばうというおそろしい行為でその罪を罰したところで、東條英機の家族は、あしたのたつき[#「たつき」に傍点]にこまりはしない。三十余万の寡婦と十余万の戦傷不具者の苦しみと孤児の人生は、彼らのところにはない。とくに日本では、あれらの人々の生活は、わたしたちにみえないところにある力によってかばわれるだろう。すでにその一つのきざしはあらわれている。作家の石川達三が、侵略戦争共同謀議者二十五名への判決の行われた翌日、新聞記者に語ったことばはつぎのような意味だった。東條たちにたいしていい気味だとおもうのはまちがっている。日本人みんなに責任がある。将来に期待するしかない、と。
たしかに、いい気味だとおもってすむ程度のなまやさしい犠牲を人民ははらったのではなかった。しかし、日本のみんなが、彼らとおなじようにわるいというのはよくわからない。それは事実でもない。人民は共同謀議によって奴隷のように狩りたてられこそしたが、その謀議に参加するだけの自由さえもっていなかったのだから。さらに石川達三の将来に期待するということばの内容は、もっとはっきりいうとどういうことになるのだろう。作家石川達三は、文学者の戦争協力についての責任が追及されたとき、日本がもしふたたびあやまちを犯すことがあれば、自分もまたあやまちを犯すだろうと公言した作家であった。石川達三という人のこころのなかで、そのことばとこのことばとのあいだには、どういうつながりがあるのだろうか。かつてそのようにいい
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