つかると、女のひとはそれを我々の今日生きている社会のおくれた形から蒙っている男女の損失として見るより先に、わが心のうちに旧い呼び声をめざめさせられ、結局女はやっぱり女らしく、と新しい生活形態を創造してゆくための努力はすてる傾きが多い。
 男のひとにしろ、そういう社会的な障害にぶつかった場合、やはりとかく不満や居心地わるさの対照に女をおいて、女らしさという呪文を思い浮べ、女には女らしくして欲しいような気になり、その要求で解決がつけば自分と妻とが今日の文明と称するもののうちに深淵をひらいている非文明の力に金縛りになっているより大きい事実にはあまり目を向けないという結果になっている。
 こういう面での押し合いは実に一朝一夕に、また一面的に解決されないものだから、近代社会は、その間に、たくさんの犠牲を生み出している。女らしさというものの曖昧で執拗な桎梏に圧えられながら生活の必要から職業についていて、女らしさが慎ましさを外側から強いるため恋愛もまともに経験せず、真正の意味での女らしさに花咲く機会を失って一生を過す人々、または、女らしき貞節というものの誤った考えかたで、わが人生もひとの人生も歪めて暮す心持になっている不幸な人々、そういう犠牲の姿は、多くの場合後から来る若い女のひとたちに漠然とした恐怖をおこさせる。そのことも肯けると思う。何故あのひとたちの生活はあすこに陥ったのだろうかという一節を辿りつめてそこに女を殺している女らしさを見出し、それへの自分の新しい態度をきめて行こうとするよりは、多くの場合ずっと手前のところで止ってしまうと思う。ああはなりたくないと思う、そこまでの智慧にたよって、自分をどう導いてゆくかといえば、自分の娘の代になっても社会事情としては何の変化も起り得ないありきたりの女らしさに、やや自嘲を含んだ眼元の表情で身をおちつけるのである。
 この点での現代の若い女のひとの自嘲的な賢さというものを、それらの人たちは何と見ているだろう。もっともわるい意味での女らしさの一つであって、外面のどんな近代様式にかかわらず、そのような生きるポーズは昔の時代の女が生きた低さより自覚を伴っているだけに本質はさらに低いものであるということを率直に認め、それを悲しむ真の女の心をもっているであろうか。われから作っている女らしさの故に女の本心を失っている女たちという逆説も今日の現実では
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