関係までを自分の問題としてとりあげる迫力がなく、しかも常に朗らかでばかりあり得ない気分の上でだけ新らしさを追求する結果、すでに映画制作者が巧みにも把えている古いものの新らしげな扮飾[#「新らしげな扮飾」に傍点]が、恋愛の技巧の上で横行する。互にまともな結婚もなかなかできない下級サラリーマンとウーマンとが、自分たちのゆがめられしぼられている小さい恋の花束を眺めて、野暮に憤る代りに、肩をすくめ、目交ぜし合い、やがて口笛を吹いてゆくような新らしげ[#「新らしげ」に傍点]な受動性。あるいは「女の心」に扱われているような至極手のこんだデカダニズムなど。それとても条件の自由なスクリーンの上での影である。われわれを埃っぽくとりまく実際のきのう、きょうを見わたして、新しい[#「新しい」に傍点]恋愛や結婚が、はたしてブルジョア社会のどこに見出せるであろうか。
子福者小笠原伯爵の何番目かの娘さんが最近スポーツマンであった体躯肥大な某氏と結婚された写真が出ていた。月給は七十円だけれども、豪壮な新邸に住まわれるそうである。一寸名のあるスポーツマンになるといいぜ、就職が楽だぜ。そういう功利的通念は、今や、オイ、御新邸を背負って華族の娘さんが嫁に来るぜ、という例外の一例とはなるかもしれないが、この結合を、社会的な評価で新しい内容をもつものであるといい得ないことは自明である。
われわれ個人の恋愛や結婚の幸福を、かくも不自由きわまるものとしている根本原因が、階級社会の諸関係である以上、真の新しい恋愛や結婚が内容・形態ともに、その諸関係のより合理的な組みかえのための闘争の過程において発展されつつあるのはむしろ当然ではなかろうか。今日は一見大差なく目前の困難に圧せられているごとくではあるが、それどころか、勤労階級の男女は一層ひどい封建性の下で家庭生活を営んでいるのであるが、新たな歴史の担い手である勤労階級の社会関係の必然から、見とおしとしては結局、プロレタリアートの勝利のみが、恋愛や結婚の幸福をも我々に与え得るものであることは実に興味深い事実であると思う。
ソヴェト同盟における新しい内容での一夫一婦制の確立は、男女の日常生活に作用する社会関係全体が、彼ら自身の犠牲多い積年の努力で健康な土台の上に組み直されて始めて、現実の可能となったのであった。
日本の解放運動は、広く知られているとおり、最近八
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