の女性達同様、一つ涙、同じ苦情、生きたいだけ生ききれない思いで過るかと思うと、安心して良人と論判してさえいられない心持になった。
 さよは、顔を押えていた手をどけた。そして、深い溜息をつき、額に乱れかかった後れ毛をかきあげた。
 見ると、保夫は、机の一方の端に頬杖をつき、人さし指と中指との間にはさんだ煙草から、香もない煙を張り合いなく立ち昇らせたまま、当もなく前方の庭の宵闇を凝視している。が、さよは、一目で、彼の注意は見かけによらず、怠りなく自分に向って注がれているのを直覚した。彼は全態で「ああ、すっかり不愉快にさせられた。仕事も何も出来はしない。お前のせいだぞ」と語っている。而も、その陰から、彼女がそれを感じて気の毒がり「わるかったわ。――御免遊ばせ」と媚さえすればすぐ許し更に優しい数言を添えて額に一つの接吻を与える心持のあることは、これもありありと示している。
 さよは、一旦鎮った感情がまた擾れるのを感じた。彼女は、保夫が上手に見せびらかしているものが、真実欲しかった。けれども、その欲しさに、うっかり負け、彼が暗に望んでいる通り、これまで云った総てを「御免なさい」と云うべきものと承認することは、彼女として堪らなかった。彼女は、自分に当然この戦いが起るのを知りながら、彼によって目醒まされたばかりの新鮮な、感じ易い本能を先ず誘おうとする保夫の無慈悲さに、憎しみさえ感じた。
 彼女の裡で、再び野蛮人があばれだした。さよは心の中で呻いた。「死んじまえ! 死んじまえ! 意地わる。貴方はどこまで私を苦しめるか」……
 暗く瞳を燃して良人の横顔を見据えていたさよは、ふと、彼が、何ともいえず陰鬱な陰を頬に浮べたのを見とがめた。彼女の神経に、きらりと或るものが閃いた。さよは、引つりとも薄笑いともつかない歪みを口辺に漂わせながら、のろのろ低声で保夫に尋ねた。
「何を思っていらっしゃるの。――同じこと? 私と同じこと?」
 愕然としたように、保夫が眼を大きくして、さよの顔を視た。
「――馬鹿!」
 彼は四辺の静寂な光を乱して、はげしく座布団の上に座りなおした。さよは、掌一杯冷汗を掻いた。彼女は、動悸が苦しく強く搏って、口をつむんでいられないようになった。「彼も同じことを思っていたのか。――そうでなくてどうしてあの意味深い馬鹿! が出よう。……自分達二人が一どきに、一緒に思えることは…
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