うに庭に突出ている。保夫は、正面の濡れ縁に向って机を据えていた。夜の、何か濃い液体のような闇は、冴えた電燈が煌々と漲る敷居際でぴたりと押し返されている。彼の後姿は、光を浴びる肩の辺をしろじろと、前方の闇に浮上って見えた。
 さよは、静に机の傍に行った。保夫は、右手に青鉛筆を持ち、薄い仮綴じのものを読んでいる。――細かな横文字を無意味に眺め、さよは声をかけた。
「――おいそがしいの?」
 保夫は、背を延し、パラパラと頁を翻した。
「そういうわけでもないが……何故?」
「…………」
 さよは、夜気が身に迫るとでもいうように、単衣の袖を抱き合せた。保夫は、彼女の顔付を見、微かに表情を変えた。彼女は、藁半紙のようにごく粗末なパムフレットに目を据えたまま、思い込んだ調子で云い出した。
「ね、貴方――安心?」
「何が?――君のような出しぬけでは、返事に困るよ」
 保夫の言葉つきの裡には、充分な用意と、それを包んだ平静さ、子供扱いの気軽さを装う響きがあった。
「何だい?……地震」(一九二三年東京、湘南地方に大震があり、翌年になってもしばしば余震があった。)
「そんなことじゃないわ、地震なんか――私共のこと。――」
 さよは、顔を擡げて良人を正視した。
「貴方ちっともそんな心持はなさらないの? しんから安心?」
 保夫は煙草の煙をよけるように瞼をせばめた。
「何か僕達の生活に不安があるというの?」
 さよは、合点をした。
「私この頃堪らないの」
「……何も不安な処なんかないじゃあないか。僕はこんなに貞節のある良人だ! 君は君で一日じゅう眠ろうが起きようが自由な身の上だ!――僕は不安どころか、大いに幸福だと思う。特に、君なんかユートピア以上の生活だな」
 さよは、不愉快に良人の軽口の先を折った。
「冗談はあと。私は真面目よ。――貴方本当に私共の生活が充実しているとお思いになること? 大丈夫、完全なものだとお思いなさる? 私は、この頃、そう呑気でいられなくなったわ。……ひどく不安なの」
「……我儘だろう?」
 保夫は、さよの笑いを釣り出そうとして、誇張した表情までつけ足した。さよは、真剣で否定した。
「そうではなくてよ。決してそうではありません。二人で暮して行く以上、大事なことだから本気で聞いて下さる方がいいわ。
 私はね、この頃貴方が判らないの。貴方の心持の中心が、生きて行く蕊が、私
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