るだろうと思う。肉体文学というものの袋小路が思いあわされる。こんにち世界で十数億の人民が平和と原子兵器禁止のために発言している。その過半数は婦人であり、第二次大戦の犠牲者たちである。ある人によれば、これらの婦人たちの性のクレイムが彼女たちの熾烈な平和への要求となっていると説明されるのかもしれないが、その要求は、フロイド時代の棗《なつめ》の実の夢、その他に表現される潜在的な形をとらない。彼女たちは政治的に平和のための運動を世界にひろげつつある。かつて意識の底によどんで潜在し、ヒステリーをおこさせていたものを、みずから意識し、更にそこから苦悩の原因をとりのぞくために、きわめて現実的に、顕在的に行為する時代にはいって来ている。わたしたちの心に疼くきょうの自由についてのコンプレックスは、「家」その他日本的な種々雑多な因子としている上に、将来日本が憲法をかえてさえ再武装するかもしれないという信じがたいほどの民族的苦痛の要因に重くされている。
 わたしが生活と文学とにコンプレックスを全然持たないか、或は極く少くしかもたない女だという見かたは、わたし自身としては奇妙に思える。「伸子」からはじまる続篇を貫いて志向されているのは、ストリップ・ショウ風ののたうちはないといえ、つまりは日本の社会の一つの時期に生きる人間、女の、意識の覚醒の課題であり、それは、とりも直さず個人と集団を貫くコンプレックスの発見とそこから解放されようとする物語ではないだろうか。

          五

 文学に再現される社会的な人間の典型ということについて、わたしは近ごろ、ひとつの目をさまされた。現代文学が、小市民の文学となってから、われわれは文学のうちにバルザック的典型を見なくなった。それにかわって、ささやかな、解決のない心理葛藤と状況のもつれを読んで来ている。
 社会主義リアリズムは、社会的人間の、それぞれの典型を描き出そうとしているのだけれども、現在まで、わたしたちは比較的小さな典型しかとらえ得ていなかったと思う。それらの典型は、一つの典型であるにしても、そう大してわるくもないし、そう大してすばらしくもない。要するに市民的規模の典型であったと思う。「道標」以後の作品の中にも、いくつかの典型は見出されてゆくであろうが、それらの、多くは市民的スケールであるにすぎない。
 権力からはなれて、つましき良心に立っているわたしたちの社会生活の範囲では、バルザック的典型は、つくり出される[#「つくり出される」に傍点]人物に属し、架空的であり、よいにしろわるいにしろ、こしらえものとしての感じを与える方がつよかった。プロレタリア文学が、英雄的な典型を見出そうとしたが、芸術を通じてその人物に読者の実感をひきつけ得ないことが多かった。ひとつの機微がこういうところにあったと思う。
 ところが、この五年間に、わたしたちの典型に関する現実《リアリティー》は非常に拡大された。わたしたちは、善意の途の上で悪党どもに面接するという経験をもった。その典型は権力の諸関係の大きさにひとしく大きい。権力の諸関係の本質と相通じて、怪物的である。そして、現代における大きい典型の再発見の妙味は、それが、ルネッサンスの世界、バルザックの世界にあるように、怪物同士、典型間の力の不均衡と矛盾を通してだけ見られているのではないという点である。頭をあげて、人民の理性が立ちあがったその眼が、その高さではじめて発見できる位置において、文学は大きい典型を再発見しつつあるのである。
 この事実は、まだ文学にあらわれていないが、日本の現代文学とその理性にとって意味がふかい。そして、現代の典型はルネッサンス時代のように、どういう意味においても強烈な個性によって――オセロとイヤゴーの例にしても――一定の社会に典型たり得ているという単純なものでないことも着目される。平凡な、人間性のよわい、自主性のかけた人物が、ある機構の特定の性格にしたがった廻転によって、ある場所におかれるとき、その人物は自分としてではなく、その機構そのものの本質を具現する典型となってあらわれて来ている。そして、悲劇もシェークスピアにおいては、何かその原因となるデスデモーナのハンカチーフのようなものをもっている。オセロの敏感な自尊心――黒人の劣等感のうらがえされたもの――そのものと、イヤゴーのユダ的性格そのものが、性格と性格の格闘として悲劇を形成している。
 現代の悲劇というより、むしろ正劇は、個々の性格間の格闘というよりも拡大されて、人間理性の発展にあらわれてきた歴史と歴史のギャップ、相剋という普遍性をもつたたかいの記録に進んで来ている。日本の現代文学は、世界の現実としてのこれら日本の現実を描きつくす義務をもっている。
 現代文学は非常にかわる。――そういう予感にみたされている人は案外に多いのではないだろうか。
 こんにち書き改められようとしている東洋史――東南アジア史は、こんにちの東南アジア諸国の大部分が、数百年の過去には、それぞれの民族としてのすぐれた文学その他の芸術をもっていたことを告げている。
 ジャーナリズムの上に氾濫している小説の数によって、一つの民族がろくな文学も持たない「島の住民」となる危険から保障されていると云えるものはない。一つの民族の社会と文学の健全にとっては、少数の西欧文学精神のうけつぎてが、自国の文学について劣等感に支配されつつ、翻訳文学であるならば、つとめてその優性をひき出すとしても、多くプラスするところはない。中国の文学的教養の大きい部分がフランス文学、イギリス文学、そして日本文学から摂取されていた時代、中国は自身を植民地の民としての立場から解放させ得なかった。[#地付き]〔一九五〇年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年11月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十一巻」河出書房
   1952(昭和27)年5月発行
初出:「中央公論」文芸特集号第四号
   1950(昭和25)年9月
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年4月23日作成
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