心に疼く欲求がある
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鋤《す》きかえされる

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)アメリカ式|切抜き《スクラップ》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)歴史のすすみの手がたさ[#「手がたさ」に傍点]をおどろく
−−

          一

 こんにち、私たちの生活感情の底をゆすって、一つのつよい要求が動いている。それは、日本の現代文学は総体として、その精神と方法とにおいて、きわめて深いところから鋤《す》きかえされる必要があるという疼痛のような自覚である。
 この欲求は、こんにちに生きる私たち多くのものにとって理性の渇望となっている。
 五年来、現代文学は、社会性の拡大、リアリティーのより強壮で立体的な把握と再現とを可能にする方法の発見を課題として来た。そのための試みという名目のもとには、少からぬ寛容が示されて来た。しかし文学現象は、その寛容の谷間を、戦後経済の濁流とともにその日ぐらしに流れて、こんにちでは、そのゴモクタが文学の水脈をおおいかくし、腐敗させるところまで来ている。ちかごろあらわれる実名小説というものも、そこにどういう理窟がつけられようとも、日本の現実におけるそれらの作品の大部分は、私小説から一層文学としての努力をぬきにしてそれを裏がえしたものにすぎない。現代文学の方法が、そのようなタコ壺にはまったとき、われわれの心には五年間の寛容について、責任をかえりみるこころもちがわいて来ている。
 日本の文学は世界の激しい前進を、より多く逆流としてうけて、最近の五年間、いわば年ごとに、タコツボに向って、おしころがされて来た。一九四五年八月十五日から後の、いく年間か文学上に発言のなかった今日出海によって、実名小説流行のいとぐちが開かれたことも、偶然ではない。一九五〇年度の文学現象のこのような特性は、それ自身として決して孤立した社会現象ではないのである。
 そのようなこんにち、一方では、社会的・歴史的な人類としてわれわれが生きている証左たる、理性の覚醒としての文学、を要望する思いが、切実である。広汎な読者がそれを要求しているばかりでなく、文学者自身のうちに、その要求が疼いている。
 こんにち、もっとも真率に探求的な態度で語られなければならない
次へ
全13ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング