ズムへ展開して、もとよりその核心に立つ労働者階級の文学の主導性を意味しているのであるが、前衛の眼[#「前衛の眼」に傍点]の多角性と高度な視力は、英雄的ならざる現実、その矛盾、葛藤の底へまで浸透して、そこに歴史がすすみ人間性がより花開くためのモメントとして、目にもたたないさまざまのいきさつまでを発見することを予想している。
歴史は、それについて多くを語らない人々によって変えられている。その現実の詳細を、社会主義リアリズムは、自身の課題としていると思う。
「伸子」につづく「二つの庭」から「道標」の道行きを考えたとき、わたしは、作家として、とても目ざましい、というような方法をとれなかった。「二つの庭」にあるすべては、それらの問題をわりきってしまった者として生きる作家としての自分、などという風な高邁[#「高邁」に傍点]な気風に立って、蜿蜒《えんえん》としてよこたわる中産階級の崩壊の過程と人間変革のテーマを扱う能力は文学的にないし、人間的にない。わたしは、これから担ぎ出して、あるゴールまで運ぼうとする材木の下にはいこんだ。そして、材木を肩にかつぎあげ、いわば身たけよりはるかに長い材木を背負わされた小僧の姿で歩き出したのであった。
私は、こうきめた。「播州平野」をかいた方法で、この複雑でごたついた重荷は運べない。もうひと戻りしよう。「伸子」よりつい一歩先のところから出発しよう。そして、みっともなくても仕方がないから、一歩一歩の発展をふみしめて、「道標」へ進み、快適なテムポであっさりと読みなれた人々にきらわれるかもしれない、ばか念のいれかたで、「道標」のおよそ第三部ぐらいまで進んでゆこう。そして、女主人公の精神が、より社会的に、ほとんど革命的に覚醒され、行動的に成長したとき、作品の構成もテムポも、それにふさわしく飛躍できるだろう。それまで辛抱がつづいたら、この仕事も何かの実験というに値する、と。
このような方法は、一歩か二歩先に、出来上ったものとしてあるように考えられている社会主義リアリズムの方法として、型破りであるし、誰が見ても低い程度からの試みである。けれども、社会主義リアリズムが、真に現実にたえる制作の方法であるならば、ひとりの作家がその実際の条件にしたがって、ごく発端的な一歩から描き出し、永年の過程のうちにより広い歴史の展望とそこに積極の要素となってゆく人間の物語の
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