っているわたしたちの社会生活の範囲では、バルザック的典型は、つくり出される[#「つくり出される」に傍点]人物に属し、架空的であり、よいにしろわるいにしろ、こしらえものとしての感じを与える方がつよかった。プロレタリア文学が、英雄的な典型を見出そうとしたが、芸術を通じてその人物に読者の実感をひきつけ得ないことが多かった。ひとつの機微がこういうところにあったと思う。
ところが、この五年間に、わたしたちの典型に関する現実《リアリティー》は非常に拡大された。わたしたちは、善意の途の上で悪党どもに面接するという経験をもった。その典型は権力の諸関係の大きさにひとしく大きい。権力の諸関係の本質と相通じて、怪物的である。そして、現代における大きい典型の再発見の妙味は、それが、ルネッサンスの世界、バルザックの世界にあるように、怪物同士、典型間の力の不均衡と矛盾を通してだけ見られているのではないという点である。頭をあげて、人民の理性が立ちあがったその眼が、その高さではじめて発見できる位置において、文学は大きい典型を再発見しつつあるのである。
この事実は、まだ文学にあらわれていないが、日本の現代文学とその理性にとって意味がふかい。そして、現代の典型はルネッサンス時代のように、どういう意味においても強烈な個性によって――オセロとイヤゴーの例にしても――一定の社会に典型たり得ているという単純なものでないことも着目される。平凡な、人間性のよわい、自主性のかけた人物が、ある機構の特定の性格にしたがった廻転によって、ある場所におかれるとき、その人物は自分としてではなく、その機構そのものの本質を具現する典型となってあらわれて来ている。そして、悲劇もシェークスピアにおいては、何かその原因となるデスデモーナのハンカチーフのようなものをもっている。オセロの敏感な自尊心――黒人の劣等感のうらがえされたもの――そのものと、イヤゴーのユダ的性格そのものが、性格と性格の格闘として悲劇を形成している。
現代の悲劇というより、むしろ正劇は、個々の性格間の格闘というよりも拡大されて、人間理性の発展にあらわれてきた歴史と歴史のギャップ、相剋という普遍性をもつたたかいの記録に進んで来ている。日本の現代文学は、世界の現実としてのこれら日本の現実を描きつくす義務をもっている。
現代文学は非常にかわる。――そういう予感にみ
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