|気違いだ《スウマ・ソシュリー》! と答えるにきまっている。しかし、この場合、ソヴェトの人々の常識では狂気としか判断されない事実[#「事実」に傍点]を、スタインベックは、神の怒りにかけて現実に見つつあるのである。そのような巧智な話術で彼がすりぬけた――というよりも、集団《マス》として「ロシアの問題」にかかわる彼の同国人をすりぬけさせてやった、その線のところにこそ「怒りの葡萄」ののちに来るテーマがひそんでいるであったろうに。――
 彼が「一人の男に握られた権力やその永続を極度に恐れ憎むアメリカ人にとって」、スターリンがどこでも必ず顔を出している(肖像画や写真や彫像で)ことは、「恐怖すべきことであり、嫌悪すべきことである」と云っていることも現代のアメリカ市民の心理にある特色を示していて興味ふかい。現在のアメリカ人にとってきらいなこと[#「アメリカ人にとってきらいなこと」に傍点]は、きらいなことだときめるだけですむかのように、それから先の追究をすてているところに、アメリカの明るさと同時に異様な主体性の没却を示している。
 そして、巨大な現象をつかみながら、作家の主体的角度が消失しているという点こそ、アメリカ現代文学の無気味な点ではなかろうか。「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの強烈な性格と生活力にかかわらず、バトラーの抜け目なさにかかわらず、彼らのところで経験されたのは状況と境遇とにすぎなかった。アプトン・シンクレアの「ラニー・バッド」は、尨大なアメリカ式|切抜き《スクラップ》と整理《ファイル》の事業である。作者は、その国の億万長者たちが世界地図をいつの間にか盤にして、その上にチェスのコマを動かしているように、世界のあらゆる場所にラニー・バッドを出没させる。地球とそこに起る出来ごとは作者の目の下にあるようだが、主人公であるラニー・バッドとは、何者だろう? その行動性をぬいたら、彼のヒューマニティにのこるのは博識と社交性とそしてすべてのものに不自由のない人間の一種底なしの虚無ではあるまいか。「アメリカの悲劇」は、たしかにこんにちドライサーのテーマとしたところから前進している。「ブルー・ラプソディー」にまで。
 こうつきつめてみると、日本の作家が「スタインベックの程度」にかかないということも単純でなくなって来る。
 世界の現実に対して、理性が主体的な角度に立つリアリズム
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