界で生きられるということはなくなって来ている。
婦人作家が女の生活を描くときでさえも、昨今のこの傾向では一つになっている面がある。
読者としての婦人に向って作家・評論家が何かを語る場合には、誰でも或る程度までは女自身のうちにある様々の向上の欲望や、古いものから脱しようという苦しみの肯定に立って発言していると思う。何故なら、一般の女のひとたちがその作家や評論家の読者としての関係で今日の世の中にあらわれて来ている動機は、何かの形でその女のひとたちの向上心とつながり、自分としての趣味の主張とつながったものなのであるから。
ある評論家たちは、婦人雑誌で婦人の教養のためにかなりの文筆活動をもしている。文学そのものがつまりは人間の精神の発展と表現との意欲を本質として立っているのだから、意識してそれをはぐらかさない限り、人間生活の歴史から来る社会と個人との不幸に対して文学が無感覚ではあり得ないことのおのずからな形である。
ところがその反面、恋愛論などで婦人の精神と肉体とに非常に溌溂積極な表現を期待しているような評論家でも、そういう場面よりほかのところで女が活溌であることは何となく肯《うけ》がいかねる感情をもったりして、自分の男としての情緒にそれをそのまま肯定しているのはどういうわけなのだろう。
そのひとの文学理論の立場から云えば、いくらか前進した生活感情がありそうだと思われるのに、思いのほか旧套にこもって、女の生活の苦しみを割合浅いところで見ている例に遭うことも、様々に深く私たちを考えさせることである。
それらの原因こそは、明治のロマンティストたちをひきずり下した踵の重りそのものであるということは、云ってみればそれ等の作家・評論家自身に、解釈としてとうに理解されていることどもであろう。現在では、そんなことはわかりきったことだが、現実の感情として男は云々と、そこをつよみのように云われているのだと思う。
女の心持から云って一番せつない、そういうわかったようなわからなさは、何か作家・評論家という仕事の形からも影響されているのではないだろうか。文学の本質と文学の仕事をしてゆく日常の形態というものは現在のような段階ではいつも必しも一致した足どりばかりはもっていない。大体、文筆の仕事は、仕事の形として極めて孤立的だと思う。一人一人が自分の机に向ってやっていて、そのとき書いている
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