がよまれ、西鶴時代の大阪商人の社会関係のもとに、西鶴がよまれなければならない。一人の読者とバルザック、西鶴をくらべれば、その文学上の能力、生活上の能力において、バルザックや西鶴とくらべものにならないかもしれない。けれども、現代の、つつましい人民の一人である読者がもっている実力は、バルザックと西鶴の個人的な天才がどうにもすることのできない歴史の実力である。バルザックと西鶴が、彼らの作品をのこして去ったのちの数百年の間に、おそろしいテンポと複雑さで、そのことごとくが人民の犠牲と献身の上に推進されて来た歴史が、きょうにもたらしている可能性である。この歴史の可能性こそ、明日の人民の能力に限りない期待を抱かせる。
 人民の生活のうちにつつまれているその可能に立って、古典を学ぶこそ、明日の人民のゆたかさになる。一九三三年ごろ、古典は、そのようには学ばれなかった。やっぱり古典は大したものだ、という風にむしろ、既成の勢力に従順になってゆく方向でうけいれられ、その社会心理は、日本ローマン派の亀井勝一郎、保田与重郎などをいつしか日本民族の優秀と絶対主義を宣揚[#「宣揚」に傍点]する「古典」崇拝に導いて、「桂冠詩人としての日本武尊だの、万葉の歌人たち、或いは恋愛の女詩人和泉式部の再発見という風に進んだ。日本の文学は、そのように古典を学んだことで、却って、現代文学としての砦《ケルン》の所在を消し、より早く軍御用とさせるに役立った。
 婦人の問題が、明治の開化期にまでさかのぼって再検討されることは、決して無意味ではない。同時に、きょうの社会現象のあれこれが、未亡人の官製全国組織に、かつて軍時貯蓄勧誘に尽力した某女史が再登場しているということまでふくめて、細密に観察され評価されてゆくことも、必要である。そして、双方ともにそれぞれの意義をもっている二つの研究にとって、最も大切なのは、そのどちらもが統一されて、わたしたちの明日に生かされるように摂取されることである。各項の情景が、もれなくとりそろえて描かれているというばかりの小説を、よむにたえる読者はいない。どんなテーマが、どのように読者の生きた共感に語りかけるか、そこに文学がある。婦人の社会生活についての諸問題を、現象に即し、歴史に即して語り、そこから必然に導かれる社会主義への展望で語ったとしても、それだけではまだわたしたちがきょうに生きている、この世界の現実に、日本の人民である婦人の善意として、プラスをもって働きかける力とはなりにくい。
 人類の歴史の発展には、それぞれの時期の核がある。その核が前進させられて社会の歴史はすすむ。このことは、婦人運動史がよく示しているし、婦人参政権運動史が、あからさまに語っている。婦人が、一般論として男子と差別のない参政権を求めたとき、イギリスの婦人たちに参政権を与えたのは、保守党であった。日本で一九四六年、婦人参政権を与えたのも保守党であった。
 しかし、日本の保守政党が、買弁の立場に立って人民の平和への念願と生活安定の欲求をうらぎるとき、参政権のある日本の婦人たちは、なお、保守政党へ投票しつづける義務をもつだろうか。そうでないことは明らかである。
 わたしたちの日常をみたしている個々の現象の社会的な原因を理解し、そこに近代の階級社会の矛盾を見出すところに、婦人の社会的自覚がとどまっているだけでは、十分でないこんにちの世界になっている。階級のある現代の社会で、世界の最大多数者である人民が、こんにち、歴史のテーマとして、人民としての生存の根底をおびやかす戦争にあくまで反対することは、人民の現実[#「人民の現実」に傍点]である。
 石川達三の「風にそよぐ葦」一四四回に、こういう一節があった。「日本の心ある知識階級は、日本の永世中立をのぞんでいる。武装せざる国家、永久平和の国家となることをのぞんでいる。」「しかし葦沢悠平は空想家ではなかった。戦いに敗れ、戦争がいやになったからと言って、それで永世中立ができるものなら、何の苦労もいらないのだ。中立とは(あらゆるギセイを払って)購うべきものであり、永久平和を守ることは、戦うことより困難であることを知っていた。」「日本だけが、この次の大戦から保護されるということは有り得ないだろう。現実を忘れた空想的な平和論は八紘一宇の思想と相通ずる軽薄な夢にすぎない。」
 日本最大の毎日新聞を通じて、数百万の読者がこの思想をよみ、何と考えるであろうか。
 この文章には、現実を理解していない作者の大きい考えあやまりがある。たしかに、平和を守ることは、戦うより困難である。いまの日本の人民男女たるわたしたちは、自主的に戦うというよりもこれまで常にそうであったように権力によって戦わせられることに抵抗しなければならないのであるから。
 日本だけ[#「日本だけ」に傍点]がいつ平和の保護を求め、それは可能であろうかというようなおろかな平和論をもっていただろう。日本だけ[#「日本だけ」に傍点]が、戦争を拒否しているのではなくて、世界各国数十億の人民が平和をもとめている、という重大な現実[#「現実」に傍点]を作者は忘れている。国際平和会議と各国の平和を守る会は、日本にも連繋をもっている。原子兵器反対のアッピールは、世界の人民の良心にとって現実[#「現実」に傍点]の問題なのである。それは観念ではなくて、こんにちの世界人民の実行となっている。空想[#「空想」に傍点]ではなくて、きわめてつよく表示されている歴史的意志である。アジアにおいて、限りない権限をゆだねられている一人の老将軍が、朝鮮の戦線に原子兵器を使用するかしないかを決定するという世紀の絶壁に立たされたとき、彼にノーと言わせる支柱となり、彼を彼の属す国家の人民からさえも世紀の戦争犯罪人とされることから救ったのは、朝鮮はもとより世界と日本とにある、現実的な平和への意志である。平和に対するこのようなおそろしいほど具体的な現実[#「現実」に傍点]を、石川達三という作家が見おとしている現実[#「現実」に傍点]こそ、あまりに架空的ではないだろうか。八紘一宇の思想を否定することにからめて、日本の人民男女の良心に立つ実際の行為を、浅薄な夢とすることは、決してあたっていないし、善意的でもない。こんにちでは、八紘一宇という言葉をひきあいとして平和への人民の意志をけなすそのことが、一九五〇年代の日本の変質した八紘一宇の姿である。
 わたしたち婦人のすべてのよい意志、愛らしい希望、聰明な奮闘、愛のいそしみは、一つの原爆のもとに、とびちらされるのだ。婦人のもっているあらゆる実行の能力、心情と理性をつくして、きょうの歴史の頁の上に平和をもたらすためにたたかってこそ、わたしたちの生命そのもの、愛するものの生命そのものの、人間の可能がまもられてゆくのである。[#地付き]〔一九五〇年十二月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「現代女性十二講」ナウカ社
   1950(昭和25)年12月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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