つの国内戦に啄をはさんだ外国軍隊の活動は描かれていない。南北戦争を機会としてイギリスが介入しようとしたが、それは国際法で侵略として禁じるところであった。
 日本の人々の頭の上におしかぶさって来ていた戦争の危機に対する恐怖と神経緊張は、六月二十五日に破られたのだが、それとともに、世界平和に対してきわめて日本人らしい[#「日本人らしい」に傍点]態度があらわれた。先ず、日本でないところに、戦さがはじまったということで、一つの安堵を得た人々が少くない。つづいて、第二には、こういう風に、実際たたかいがはじまったからには、あんまり平和について理屈っぽいことなど語らないで、目立たず、少しでも特需景気の恩沢をうけるのが賢いことだ。そういう考えかたである。日本はどうなるのだろう。もう戦争だけは御免だ。いまもそう思っている心にかわりはないけれども、日々の現実で、益々切実に平和が要求され、いよいよ迫った真剣さで、平和のために全日本が行動しようとする意欲は示さないのである。日本の人民の心理にある軍国主義の残滓は、まだまだ戦争を人類的犯罪としてじかに感じるよりも、こんにちのところでは、世界の賭《かけ》として見る傾向がつよい。傍観しているつもりのその賭けの、最も直接の賭けものは、日本の人民自身たちであることをそれが事実であるよりもぼんやりとしか理解していないままに。――

 きょうでも、世界は平和を求めているのだ。わたしたちは、このことを決して忘れてはならない。わたしたちが飢じく寒いからと言って、一部の人間だけは飽食して、他の大多数の人間に食物のない社会状態を、まともなものとして、肯定するひとがあるだろうか、火事がこんなに多い日本だからと言って、消火と防火の意味を否定するひとがあるだろうか。
 平和に関してばかりは、どうしてか多くの人が、どこかに絶えず戦争があるのが地球の現実だのに、平和を言うのは観念的であり、非現実だというのだろうか。日本では、一九四五年八月からのち、一九四九年いっぱい、平和を支持して公然と語っていた人々が、一九五〇年にはいってから、六月二十五日朝鮮でのたたかいがひきおこされてから、自分が日本人として戦争に反対し、平和を欲しているものであることをはっきりさせる人が目立って減った。そして、いまなお世界平和を語り、そのために努力をつづけようとしている者は、こんにちの世界で最もおくれて野蛮な用語の一つである「アカ」のやからだけであるという偏見が流布されるようになりはじめているのは、どういう理由だろう。アカという言葉を、戦争中の日本軍事権力は人民を裏切る国賊という意味でつかわせた。そして、侵略戦争に反対する良心の声を抹殺したのであった。その結果は、どうだったろうか。

 第二次大戦後、世界が平和運動を最も重大な歴史の課題として、そのために国際的な組織をもち、世界各国のまじめな、能力ある人々が、それぞれの国の中で熱心に活動をつづけているのには、現代の世紀の当然な理由がある。
 第一次ヨーロッパ大戦、そして第二次ヨーロッパ大戦。二つの大戦は、その一つごとに戦争の被害を拡大させて来た。第二次大戦では、アフリカの住民までも飛行機と爆弾をしらされた。現代の科学力は、それが国際的な軍需生産者の独占資本に使役されるとき、戦争行為におかれた国々の軍事的拠点に、想像できないほど巨大な破壊力を加えるばかりでなく、その周辺の全く無罪な人民の生命を、老若の差別なくみな殺しにする。この事実はナガサキとヒロシマによって経験されている。戦争と軍需生産者の独占資本の関係は、資本主義の社会悪として、全人類的犯罪の可能にまで膨脹して来た。誰でも知るように、資本主義社会での政治的方向は独占資本の欲する方向と反対ではあり得ない。資本主義の国々での政治はもとより人民の手にないし、政治家の手にあるのでもない。政治資金を提供する独占資本の力、その力こそ軍隊を持つ国家権力として自身を表現している。第二次大戦の過程そのもののうちに、世界の民主勢力が、ナチス・ドイツ、ファシスト・イタリー、日本をうち破った。その過程に、すでに世界の一部に片よってたまった巨大な資本そのものの欲望の矛盾がきざしていた。
 第二次大戦ののちにつづいておこった熱心な世界の平和運動は、ただ戦争は野蛮である、それはなくさなければならないという宗教的な道徳的な人類の良心の上に立っているばかりではない。世界の社会秩序は、新しい観念の上に建設されなければならないという展望に立っているのである。人類の理性と意志とは、様々な架空の名目、美名で人民同士が互に殺戮しあうような偽瞞の誇りや愛国心にまどわされていてはならない。戦争で底の底までの被害をうけたのは、どこの国でも、人民男女とその子供たちであった。その損害から恢復するための援助ということに添って、またふたたび、より悲惨な戦争が導き出されるような条件を存在させてはならない。戦争の惨禍にさらされた地球のすべての国の人民は、人民こそ、戦争の犠牲であることを、まざまざと知っている。それ故に人民こそ、世界の人民の平和のために努力し奮闘するに価する事実を知って行動しているのである。十数億の人々が平和のために立っている。原子兵器を禁止し、それを最初に使用した権力を、人類に対する戦犯とすべきであるというストックホルムの平和大会アッピールは最近、益々そのアッピールの切実さが証明されつつある。日本でさえ六百万に近い署名をあつめた。そして、資本主義国としては、第三位を占めている。

 戦争。――この二字が意味する人民生活への破壊力の大きさ。人民の生活は、燃える空と轟き裂ける大地の間に殲滅される。戦争は、人民にとって直接生命の問題である。命あっての物種、というその命をじかに脅かされることであるから、生命保存のために、人々の全努力が、瞬間の命を守るたたかいに集注される。
 絶え間なく戦争の危険がふりまかれ、人々の心に不安が巣くっていれば、戦争の恐怖がどういうものであるかを経験している国々の人民は、自分たちの日々の建設に、確固とした永続性を見出しにくい動揺した心理で暮すことになる。この生活も、いつどうなるかわからないという場合、大部分のひとの心もちは目先の平安にあざむかれやすくなる。刹那の快楽にも溺れやすい。そして、それらの平安や快楽は、常に人間の官能の面に触れたものである。理性をしびらせ、ストリップ・ショウについて獅子文六が書いているとおり、何も彼にも忘れさせる、そのようなデカダンスが、社会にはびこる。そのような雰囲気の中で、人間らしい男女の愛の営みが、どういう風に破壊されるか。きょうはそれについて考えていない人はない。
 戦争を恐怖し嫌悪するわたしたちは、その戦争をなくするためにこそたたかわなければならない。その自明な判断は、一定の行動を必要とするし、組織を必要とするし、当然、戦争を挑発するものとの摩擦に抵抗しなければならない。どうせ、また、と戦争の恐怖に理性をしびれさせられて、戦争とのたたかいを放棄してしまったとしたら、第二次大戦後のきょうの世界で、われわれが生きている、というそもそもの理由がどこに在るだろう。殺されるまで、ただ生きている――そんな人間の存在が、あり得るだろうか。

 人民男女の生活の問題として、婦人の諸問題があるということが理解されている以上、こんにちの歴史の現実で、人民生活そのものに対する破壊力とたたかってゆくことこそ、基本的な環であることは、もはや、誰にとっても明瞭ではないだろうか。
 ここに若い愛人たちがある。互にまごころをつくして愛しあい、新しい生活形態を研究して生きようとしていたとしても、日本の人民全体がもし無抵抗に戦争にひきこまれて行くとしたら、二人の人間としての善意は、どこに生かされよう。男は戦線にひき出される。女は、そのような戦争に反対するということで、アカだとされて失業したら、そこに、東條時代の日本と、何の相異が見出せるだろう。
 池上の小学校の父兄たちのPTAは、特殊喫茶を学校のまわりに建てさせないための運動をおこして、成功した。このPTAの成功は、文教地区を道徳的に清潔に保つことを政府に理解させた。このPTAの親たちは、みんな子供の将来[#「将来」に傍点]について、人間らしい豊かさ、正しく生きる者を育てたいという希望を抱いている人々である。親としてのそういう希望が、まちがっていないことを確信し、行動した人々である。この同じ人々のPTAが、平和投票のすすめには、どのように反応し行動したであろうか。子供たちの将来[#「将来」に傍点]は、そこに平和な社会というものを考えなければ、なりたたない。軍夫になるかもしれない子供たちの将来[#「将来」に傍点]を、肯定することのできるただ一人のPTAの親もいないであろう。だけれども、もしかしたら、ここのPTAでも、ストックホルム・アッピールは「一部のものが、ためにするところのある」運動だという宣伝にのっているのかもしれない。教育委員の選挙に、保守的な人ばかりが多数を占めた事実は、教育の前提として平和を求めている候補者は、アカらしい、と思われたのかもしれない。このPTAの親たちが、真実子供の将来[#「将来」に傍点]について関心をもつならば、親としての自分たちが、平和についてどう考え行為しているか、教師たちの教育の方針は、平和の価値について子供たちに何を教えつつあるか、その点にまでふれてゆくのは必然であるだろう。
 青少年の悪化が問題になり、その角度から十代《ティーン・エイジャ》が注目され、文相天野貞祐は、日の丸をかかげること、君が代を唱うこと、修身を復活させようとしている。そして、日本の全人民が、いかなるものに対して犯罪をおかそうとしていると不安なのか、全住民の指紋をとることまではじめられようとしている。
 偽りの目標をもった戦争とその敗戦が、日本の社会をこわした。重大犯罪の大部分が組織的で、大規模で、殺人をともなうことは、永い戦争の年々、当時の国家権力が、権力をもって人民に強いた殺人と掠奪との組織的行動の残像である。そして、こんにち、公団の腐敗その他、特権に必ずつきまとっている不正な利得、人民の富の奪取を、どうしようもない政治の無能の反映でもある。

 文学の面でも、最近、明治からの現代古典を体系的に見直してゆこうとする一つの傾向があらわれている。現代文学は、肉体文学も、社会小説も、実名小説も、きょうのわれわれの生活のこころにふれるものでないから、というのが一つの動因である。だけれども、明治文学、大正文学、そして昭和をきょうの文学まで辿り直して来る、そのことからだけ、新しい人民の生活を語る文学はうまれない。むしろ、そういう回顧の流行は、それ自体、一つの文学の危機を語る現象でさえある。一九三三年、日本の権力が戦争強行の決意をかためて、言論・思想の自由を奪い、文学を戦争宣伝の方向に利用しようとしはじめた時、プロレタリア文学運動は禁圧された。
 プロレタリア文学運動が窒息させられたことは、ただプロレタリア文学運動だけの問題でなくて、文学の本質の一つである人間生活における理性の探求、現実批判の精神を窒息させたことであった。そのために、それまでは、プロレタリア文学運動に対立し、それとたたかうことで自己の存在意義をあらせていた当時の小市民の文学――市民《ブルジョア》文学――も、自身のうちに発展の可能を見出せなくなって来た。その結果、「不安の文学」という流行がおこり、つづいて「古典を学べ」という流行が生じて、バルザックなど、近代リアリズムの初期の作家が無批判によまれた。けれども、「古典を学ぶ」価値は、こんにちの社会と文学の現実の発展のうちによみとられてこそ意味がある。バルザックの偉大さにしても、西欧のリアリズムにしても、バルザックが彼の時代のフランス・ブルジョア社会の限界・個性の限界としてその作品にくっきり映している歴史性は、公正な評価をもって見られるべきである。こんにちの歴史ではより明確にされている社会の認識に立って、バルザック
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