戦争はわたしたちからすべてを奪う
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)風《ふう》がわるい

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(例)くすぐり[#「くすぐり」に傍点]の調子
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 この一冊の本は、わたしたちに何を告げ、何を教えているだろう。この本のあらゆる頁が語っている。女性が、封建社会から近代資本主義社会へと、人間らしい生活を確保しようとしてたたかって来たたたかいは、どのように複雑であり、かつ歴史の長い時期にわたった事業であるかということを。そして、女性も人間であろうとするそのたたかいは、十九世紀から二十世紀のはじめにかけての、男子に対する婦人の権利の拡張(女権運動)から発展して、こんにちでは、世界各国の人民男女として、男女が互に扶け合い、生活関係と政治を、より多数のものの幸福のために運営する可能を見出してゆこうとする時期に到達していることを、この本の各項の研究と報告とが告げているのである。
 したがって、きょうのわたしたちは、単なる婦人運動者であり得ないし、婦権獲得運動者でもあり得ない。自分ひとりの幸福についても、考えつめてゆくと、その願いにつながって日本全体の幸福の問題が浮び上って来ずにはいない。日本の幸福ということを考えたとき、そこにはいや応ない世界の現実として、アジアにかかわる世界のそれぞれの勢力と日本との関係というものについても、思いをやらずにはいられない。
 第二次世界大戦によって、日本のファシズム権力がわれわれの運命に加えた破壊力は激しくて、日本の女性が自分ひとりとしてはつましくのぞんでいる片隅の幸福さえも、世界歴史の大通りの上で吹きさらされていることが誰にも実感されて来ている。
 中国、朝鮮、日本などのように、封建的な社会の風習と、資本主義社会の苛酷な婦人の労働力に対する搾取とが重なりあっているところでは、特に婦人のすべての重荷と悲運が、婦人問題としてだけでは解決されない。日本の社会そのものが、根本から変ってゆかなければ、口さきや文学の上の議論だけでは男の生活も――女の生活も――人民の生活は、どうにもならない。大衆が現実にきょうを生きている経済事情、その劣悪さから湧き立って世間に溢れている犯罪と社会悪。婦人の問題、そしていまの日本のおそろしい青少年の問題。すべてが、現在の社会の矛盾、或いは、ひびわれの間から発生している。いまのままの社会状態では、われわれが平安に生きることのできる日は一日もない。これは、こんにち、占領下の日本に特権というものをもっていない、すべての人が感じている。
 資本主義社会の悪として生じているあらゆる問題の正当な解決の見とおしは、資本主義社会そのものの全体の発展――社会主義社会への見とおしなしにあり得ない。たとえそれが、どういう言葉によってあらわされているにしろ、この実状も、あらゆる人に予感されている。ソヴェト同盟の社会主義社会の建設について、疑いぶかい人たちも、日本に近い中国で、「あのシナでさえ」人民の新生活がはじまっている事実については、無関心であり得ないのだ。
 すべての婦人にとって、また男にとって、きょうの実際問題は、占領下のこの日本の実状のもとで、日本という列島がその島々ごと戦争にまきこまれはじめているこのきょうのなかで、各人の人間男女としての努力はどのようにされて行ったらいいのだろう、ということである。

 一九四五年八月十五日から、こんにちまで日本のわれわれは、日本の民主化というものが、どんな風に推移して来たかを、まざまざとその身で経験している。ポツダム宣言。日本の新しい憲法。労働に関する法律。人民の日常生活安定を確保することについての政府の公約。それらの日本人民の民主的生活をうち立てるための柱は、こんにちまで、三段か四段の過程をもって、次第に削られて来た。そして、帝国主義というものの矛盾としてあらわれるそのような二枚刃のカンナの削り作業に対して、異議をとなえる意見や発言の限界は、「君たちは話すことができる」一九四六年ごろとは非常に変って来た。
 これらの変化のあるものは、厚かましい公然さで自身の場所をしめて来た。またあるものは、いろいろの社会心理のモメントをとらえて、いわば三越や白木屋のマークが、いつか日本人の眼にしみこんでしまっているように、日本の人民に印象づけられて来ている。
 その著しい例は日本の天皇の一族に対する日本人民の感情の導かれかたである。天皇はあらひと神ではなくて、人間の男であり、皇后、皇太子、皇女たちは、その妻や子息、息女であることがわからされた。
 人々は、人間である天皇、人間である三笠宮に親愛感をもつことに馴れて来た。皇太子が、唯一の御馳走は、カレーライスだと思っているということについて、
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