得るだろうか。

 人民男女の生活の問題として、婦人の諸問題があるということが理解されている以上、こんにちの歴史の現実で、人民生活そのものに対する破壊力とたたかってゆくことこそ、基本的な環であることは、もはや、誰にとっても明瞭ではないだろうか。
 ここに若い愛人たちがある。互にまごころをつくして愛しあい、新しい生活形態を研究して生きようとしていたとしても、日本の人民全体がもし無抵抗に戦争にひきこまれて行くとしたら、二人の人間としての善意は、どこに生かされよう。男は戦線にひき出される。女は、そのような戦争に反対するということで、アカだとされて失業したら、そこに、東條時代の日本と、何の相異が見出せるだろう。
 池上の小学校の父兄たちのPTAは、特殊喫茶を学校のまわりに建てさせないための運動をおこして、成功した。このPTAの成功は、文教地区を道徳的に清潔に保つことを政府に理解させた。このPTAの親たちは、みんな子供の将来[#「将来」に傍点]について、人間らしい豊かさ、正しく生きる者を育てたいという希望を抱いている人々である。親としてのそういう希望が、まちがっていないことを確信し、行動した人々である。この同じ人々のPTAが、平和投票のすすめには、どのように反応し行動したであろうか。子供たちの将来[#「将来」に傍点]は、そこに平和な社会というものを考えなければ、なりたたない。軍夫になるかもしれない子供たちの将来[#「将来」に傍点]を、肯定することのできるただ一人のPTAの親もいないであろう。だけれども、もしかしたら、ここのPTAでも、ストックホルム・アッピールは「一部のものが、ためにするところのある」運動だという宣伝にのっているのかもしれない。教育委員の選挙に、保守的な人ばかりが多数を占めた事実は、教育の前提として平和を求めている候補者は、アカらしい、と思われたのかもしれない。このPTAの親たちが、真実子供の将来[#「将来」に傍点]について関心をもつならば、親としての自分たちが、平和についてどう考え行為しているか、教師たちの教育の方針は、平和の価値について子供たちに何を教えつつあるか、その点にまでふれてゆくのは必然であるだろう。
 青少年の悪化が問題になり、その角度から十代《ティーン・エイジャ》が注目され、文相天野貞祐は、日の丸をかかげること、君が代を唱うこと、修身を復活させ
前へ 次へ
全14ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング