かかって白いかおをかたむけて快さそうに居ねむりをして居た。
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「ねえHさん、あんな事をしてる阿母さんを見るといかにものんきな考えのないものの様に見えますねえ」
[#ここで字下げ終わり]
 母親のおだやかなかおを見ながら千世子は云った。
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「あんたは、あんまり阿母さんや何かを批評的に見るからいけないんですよ、だから阿母さんのする事が妙に不愉快に思えたり馬鹿な事をして居ると思われたりするんです……」
「そうでしょうか……」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子は目の前に下った三本ばかりの髪をより合せながら気のない返事をした。フッとおそわれた様に指先がふるえるとわけのわからない丸いものが頭の中をころがり出した。
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「今夜はHさん、貴方が大変すきですの、どうしてか知らないけれ共――でももうねましょう、これよりおきてると私はあした目がくぼんでしまいますもの……」
「それじゃねましょう、阿母さんを起してやさしくして御あげなさいよ、サ」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子はいい気持そうにして居る母親をおこして寝室につれて行った。そして又もどって、
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「瓦斯を消して私達も寝ましょう、貴方のお部屋にはローソクがついてます、私これから髪を解きますからどうぞお先へ――」
「エ、今日は私があなたを興奮させたんでしょうネ、キット、かんべんして下さるでしょう、ネエ」
「エエそんな事おっしゃるまでもない事《こ》ってすわ、あなたあしたおひま? ここで又製図なさる?」
「ここでやります、エエ、もうそうひまもないんです――しますから――」
[#ここで字下げ終わり]
 二人は燭台をともして、千世子はうす明るい灯のわきでまっしろく光る櫛で髪をといた。ときあげた髪をうしろにさげてふりかえった時Hはいつもするねしなのお祈りをして居た。お祈りのすむのをまって千世子は、
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「おやすみなさい、おそくまでお気の毒さまでしたワ」
[#ここで字下げ終わり]
としずかな調子で云った。扉にかぎをかけた時Hは、
「考えずにおやすみなさい」といたわる様に云って一寸千世子の背に手をかけた。千世子はまっくらな室へ、Hはうす赤くローソクのガラス越に光って居る部屋へと、まるで違った気持で別れた。

        (二)[#「(二)」は縦中横]

 寝間着を着て床に入りは入っても枕の羽根がかたまってごつごつして居たり、毛布がずったりして千世子は落ついた気持になる事が出来なかった。寝なくっちゃあならないと思って眼を閉じるとうすいまぶたをすかして五色の光りものが目先をとんで廻った。耳なりがするそうぞうしい音の中にヘッダの科白が浦路の声でひびいて来ると思えば鴈次郎の紙治のまつわる様なこえがひびいて来る。今日までよんだ本の中で良いと思って居たところがキレギレにうかんで来る。
 千世子の頭中にたまって居る不平やら疑問やらがぬけ出して来てゾロリっとならんで一つ一つが、
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「ヘッヘッいかさま……」
[#ここで字下げ終わり]
と云ってひっこんで行ったり、もうどうしていいかわからなくなって来た。ムックリと床の中に起き上って手をのばしてテーブルの上に置いてあるひやっこいお茶をのんだ。
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「まるで年寄のする事を私はして居る」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子は自分で自分を笑うように云ってうす暗い電気の光線で豊からしくふくらんで居る胸やしまったうでを見て笑い声を思わず立てた。うす紫の光線の中に桃色の寝間着を着て白い床の中で髪をおもちゃにして居る自分がふだんの自分より可愛い美しいものの様に思われた。きれいな言葉のつながった歌ともつかず詩ともつかない断片的なものがスルスルスルと出て来た。となりの部屋にねて居る親達に気をかねて小声にそれをくり返しながら枕元の小さい光る時計を見た。不思議な事を思わせる音をたてて世の中の「時」のたつのをおどす様に人間共にしらせて居るのが役目の長針と短針とは短針は四時のところを長針はまんなかをずっーと越して居た。
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「もう一寸立ったら起きてやろう」
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 千世子は独り言を云ってフカフカの羽根枕の中に頬をうずめた。寝間着の胴をくくって居る太いうちひものさきについて居る房を掌の上でさばきながらとほうもない空想にふけった。「まわりはしずかで思う事はたれはばからず思えてふとんは柔にあったかいし」こんな事を千世子は大変にうれしく思って押えきれない笑いがついつい頬にさしこんで来る。
 うれしい時千世子がいつもする様にかるいため息を吐いて胸をそうっと抱えた。時には世間を知りぬいた女の様なさばけた様子をしたり、女王の様におごった心持となりをして見たり、又今の様にいかにも若い女らしいしなやかなこまっかい曲線をつくる身ぶりをする事等は千世子のくせの一つであった。
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「あの人はあしたはあの部屋で製図をすると云うし、私はあのつづきを書けば好い。阿母さんは縫物と謡と本をよめば事がすむし、父様は事務所に行って……。お茶時には牛乳のお菓子を作ってあついコーヒーと一緒にHにあげよう」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子は子供らしいつみのないうきうきした気持で明日《あした》自分のする事、Hのする事、母親のする事等を考えて、Hが製図台の上の白い紙に快い音をたてて線をひく、その傍に大理石のテーブルの上にバラの生けてあるわきで自分の心からしみ出して来るしまった感情を字にして行く、その時のかおつきからさしこむ光線の色までを空に描いた。夜いっぱりでとびぬけて朝ねぼうの千世子は今夜にかぎって早くうす明るくなって来れば好い、こんなうれしい気持で迎えるあしたと云うものが早くその目を見開いてほしいと思ってはでな模様のあるカーテンを引いた。
 目さめかけた小供のまぶたの様にぼんやりとあかるんで居る外の景色は、寝坊な千世子の今までにあんまり経験した事のない優しさと考えぶかさと気高さをもって居るものだった。霊気にふれた様に、偉大なものを頭の中につきこまれて居る様に千世子は外の景色を見入って居た。今までめったに見た事のない壮厳な背景の前に千世子の頭にたえず描かれて居るニムフやサチルズがかるい足どりで木の葉かげから出て来ては舞うのが見られた。アポローの銀の絃の澄んだ響に、ふかさの知れない谷底になる沈鐘の鐘がまじって美くしい音楽となり、山の*さん郎らの金の櫛で梳りながらの歌声、そうした、いかにも想像で出来あがった美くしいおだやかな幻影の絵巻物が千世子の前にひろがった。
 涙をポロポロこぼしながら千世子はひざまずいた、嬉しさは潮の様に波立っておしよせて来る。
 神秘的な暁の色の中に体をひたしてつっぷして目に見えないものを感謝し讚美した。ジいと上を見ながら千世子は立ち上った。
 よろこびと云いしれぬ胸のときめきにかすかにふるえる体をうす桃色の房の長い寝間着とまっしろにシックリした毛足袋につつんで長くとかした髪をくびに巻いて青磁の燭台に灯をつけた、部屋の出口を銀に光る鍵であけることも廊下に木のかげのさして居るのもこの上なくいい感じのする事だった。途中まで来て千世子は巻いて居たかみをほぐしてその半分で顔をかくし灯をさきに出してすり足をして歩いた。
 斯う云う時に斯う云うなりをして斯う云う心持でこんなところをあるいて居るのは、長くつづいた舞台面の一節をくぎったものの様だと思われた。
 ふさわしい、いかにもつり合った言葉を一こと云って見たかった。けれども人間ぐさいろくでもない言葉を云ってぶちこわしてしまうよりはと千世子はだまっておどり上る胸をかかえて西洋間の前に立った。
 うす赤い灯がチラチラとガラスの中にもえて居る、黒い人影がうごかずに居る、かるい歌ごえが戸のすき間からもれて来る。
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「マア……」
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 今の心持にあんまりよくそぐった事をして居てくれると、今がまだ人のねて居る時であろうとか、何をうたって居るとかと云う事を云う余地考える余地のないほど千世子はうれしかった。
 オパアルのように光るハンドルをもってそうっとあけた。うす青い暁の光線の流れ込む中に桃色のかさをかぶったスタンドがともって新らしい色をした薪からは御あいそうをする様にまっかな焔がチラチラと出て居る。厚いカアペットの上に紫のクッションを敷いてHはなげずわりに座って火を見ながら歌って居た。胸の貝のボタンが大きくまたたいて紺と茶の縞の千世子と同じ形の寝間着の背中はポッカリとふくれて居た。
 ローソクを消すのも忘れた様に千世子は立ったまんまで居た。フッとふりかえったHはおどろいた様なかおをして云った。
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「どうなすった? 今頃――」
「ねられなかったんですワ」
「ねられない? 私も、だからこうやってさっきっからここに来てたんです」
「そう、だけどいいあけ方です事ネエ、部屋でさっきっからいろんな事を思ってよろこんで居たんですワ」
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 千世子は夜はねなくっちゃあならないもんだって云う事を忘れてしまった様にうきうきした声で云った。そして火のそばにラシアの足台をもって来てそれに腰をかけて白い毛につつまれた足を二つ小さくそろえた。桃色の着物はスーッとゆるやかに流れて房のボッチがHの茶と紺の縞の房とならんで美術的な色や形をして居た。二人はややしばらくだまって薪のはぜる音をきいた。
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「あしたつかれましょう?」
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 Hがいかにも大切らしい口調できいた。
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「そんな事あるもんですか、ネエ、さっきも私そう思ってたんです、今までにないほど今日のあけ方をうれしく思わせて下さったからお茶時にはおいしいものを御馳走してあげようとネエ。随分馬鹿らしい事だけれ共さっきは真面目で考えたんです」
「有難う、でもほんとうに、あんまり興奮させちゃって、ネエ」
「私今うれしいんだからそんな事云うの御やめなすってネどうぞ、ほんとうにうれしいんです、もうどうして良いかと思うほどなんですの」
「ようござんすネエ、まわりの幸福な人は少し位いやな事に出会っても嬉しく思っちまうんですからネエ。一寸変な事云う様だけれ共私のきく事をあんた返事して下さる?」
「してかまわない事なら……」
「じゃネエ、貴方は私をどんな男だと思う?」
「どんなって――私はそう思ってます、かなり感情のつよい神経家なんだけれ共つとめて平気になんでもない様にしていらっしゃる方。それから世の中には自分が征服してしまうかそれでなければそれに心を奪われてしまう事ってあるでしょう。それを大抵の事は征服して――少しぐらい無理でも又心をうばわれそうになっても征服しなくっちゃあ気のすまない方、生をつよく愛する方、それで居てかなり悲しみやすい方、違いましたら――」
「そう見えますか、それで貴方は私をすき? それともきらい?」
「私はすきな人でも時によると、――その時の気持によって見向もしたくないほどになる事がありますもんはっきりは云えませんけど――好きはすきですわ」
「すき?」
「エエたしかに――だけどあんまりすきかすきかなんておっしゃるときらいになっちゃうかもしれない――」
[#ここで字下げ終わり]
 千世子はこんな事を云って笑った。
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「どうしてそんな事おききになる?」
[#ここで字下げ終わり]
 まだ笑の残って居る口元で云った。
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「何故ってことはないけど只きいただけ」
「そう……」
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 薪は前にもまして益々盛に燃え始めた。Hのかおも千世子のかおも赤くはえて、世の中の事にまださわらない目と手と顔なんかはひるま――ごみっぽい昼間よりはよっぽどきれいに白く二人ともに見えて居た。
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「手が少しつめとうござんすねえ」
[#ここで字下げ終
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