う様にすてて行った女。
 斯う思うと、憎しみ、怒りのかたまりになってそのまだ見た事もない女の顔はとてつもないきたないものになって目の先にちらついた。
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「にくらしい人ですねえ、何てまあ……、私と同じ女と云うもんの中にそんな人のあるのを思うと私はどうしていいかわからないほどになっちゃいますワ、ほんとうに……」
「何にもお前に関係のある事じゃあないじゃないか」
「そうには違いないけど阿母さんそうお思いなさらない?」
「ほんとうにどんな血とどんな脳髄をもって居るんでしょう、犬だって猫だって食べない肉をもってるんでしょう」
「いけませんでしたネエ、貴方のいらっしゃるところでするべき話じゃあなかったんですけど、つい……」
「は、一寸感じるとこうすぐ変になっちまうんですから……」
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 あんまり亢奮した千世子は二人の話して居る事をぼんやりと遠くの方にきいて居た。
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「あんた、ほんとうに可哀そうな方ねえ、どうしてそんななんでしょう、あなたがさっきおっしゃった事大変気に入っちゃったんです、きのうより倍もすきな方になってしまった」
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 千世子ははれぼったい顔をしながら云った。
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「同情して下さるんですか。ほんとうにありがとう。でもどうぞあんまり亢奮しないで下さい、こな事はつまるところ私の馬鹿だったお坊っちゃんだった証拠なんですし又こんな目に会うほど私はしょうどなしでもありませんから……」
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 悲しいあきらめがさせる様にHは苦しい笑い方をした。
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「ねえ奥さん、あたり前の男なら私位の年にもなって女なんかにすてられたりすればすぐ忘れられるし又それを再びするほどすれた人が多いでしょう? けれ共、どうしても私にはそれが出来ないんです、私は女と云うものを始めてのぞいた時に一番みっともない、めったにないほどのみっともなさを見せてくれたんですもの」
「その方が尊いんですよ。この女にすてられればこっちの女、こっちの女がだめならあっち――そんなにすさんでしまう人だってありますもの――男なんてまして女ほどそういう事に対しての刑罰は重くないんですものねえ。貴方がそれをすっかり忘れてしまって、皆の安心する様に結婚でもなさりゃあなおようござんさね。そんな事が一度位あるのもやたらに女にだまされない様になりますからねえ」
「私が若し一緒になる人なら、私がどうしても欲しいと思う様な人があった時のはなしです、それまで私は独りで書生の生活をして居る方がいいんです」
「でも若い人同志がお互にいいと思いあっても間違いがありやすうござんすものねえ、何にでも感情が先立つ頃なんだから……」
「それでも二人ともが真面目で、それこそ手なべさげてもと云うほどだったらその方がどんなにかお互に幸福でしょう」
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 千世子はフイと横槍を入れて二人の顔を見くらべた。
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「でもサ、世の中が進むと何から何まで妙に進んでしまうんだネ。私達の娘の時代は母親と議論をする事なんかは思いもよらない事だったんだけど、どうもお前はあぶなっかしい人間だよ、たしかに」
「あぶなっかしいってどんな? ねえ貴方、そんなに私はあぶなっかしい猪武者なんでしょうか――」
「お阿母さんは案じていらっしゃるんですよ、貴方とお母さんの感情はまるであべこべですものだから時々お互にわからない事が出来る様になるんでしょう」
「そうでしょうかネエ」
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 千世子はだまって焔を見て居たがいきなり、
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「マアきれいじゃありませんか、ほんとうに」
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と叫んだ。
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「何が?」
「焔が、――まあなんてきれいに燃えてるんでしょう、何かまっかな着物を着たものが出て来そうだ」
「貴方、マアこうなんですよ、そんな事を感じて居るのは無駄な事だ、只神経を費すばかりだといくら云ってもやめないんですから、それで又思ってもだまって居ればいいのに、ヒョイと顔を出すんですからほんとにサ」
「そんなに云わずといいじゃありませんか、今日にかぎって。だれでも私みたいに御金の事も着物の事も考えずに居れば斯う云う好い気持になれるんですよ、私の方が妙なんだか世の中の人が妙なんだかわけがわかりゃしない」
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 千世子はかんしゃくを起して大きな声で云った。
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「そんな事を云うもんじゃありませんよ、案じていらっしゃるんだから……」
「エエそりゃあ分ってますの、けれども人よりもよけいに嬉しかったりきれいだったりするのに心配はいらない事でしょう……」
「そう云うもんじゃありませんよ。親と云うものは、自分の子供がうれしがって居れば嬉しがりすぎはしまいかと案じる――あんまり綺麗だと云えば綺麗がりすぎはしないかと案じるんですから。聞くだけでも感謝してきかなくっちゃいけますまい、私なんか親に心配された事なんか夢にも有りゃしない、不幸なんです」
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 Hは千世子の味方をしながら又母親の気もそこねまいとして斯う云った。千世子はその気のわからないほどふぬけでもないから、
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「ええ……エ」
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とあいまいな返事にごまかしてしまったけれ共Hのものなれた言葉つきや割合に自分の気持も解して呉れると云う事がさっきの事と一緒に千世子には大変に気持よくうれしく思う事であった。そして自分でそうと斯う思って居た。
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「私はやっぱり若いんだ。Hがあんな事を云ったって三十位にもなって居ればただいいかげんに何か感じないんだろうけれ共、世間になれた様なふりをしてたってやっぱり世間知らずらしい」
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 千世子は母親のだまって居るのを一人でひきうけた様にいろいろHに質問をした。Hはひくいしまった声でさとす様に云った。
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「そんな事はいいかげんに考えて置くがいいんです。世の中のそう云う事は皆いいかげんに考えて居る方がいいんです、いいかげんにかんがえた事がすこしうまく行けばほんとうに近い考えになるんで目に見えない事、考えても一寸わからない事はいいかげんになすくって置かなくっちゃあ人間みたいなものは生きて居られなくなってしまいますよ」
「いいかげんに考えるって云う事は私大きらいな事です。一生懸命に考えたり、人にきいたりすれば幾分か満足に近い考えが出来て来るんですもの、そんなうれしさは中々それこそほんとうに――」
「そうかもしれませんけどあんまり考えてわからない時は山の中に入ってしまいたかったり、華厳の滝から招待状が来たりネエ。そうじゃありませんか貴方ぐらいの年の人はもっとのんきらしくして居て好いんです、頭ばっかりの人間になってしまいますよ」
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 Hは千世子にそんな事を考えて居るのはあんまりこのましい事じゃあなかった。こんな神経質な感情的な女がそう云う哲学的の事を考え込む様になってはその末には好い事のないのを知って居た。其の晩にかぎって千世子の云う事がはっきりと頭にのこって行った。
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「ネエHさん、貴方この頃の文学をどう御思いになります? 私なんかあんまり放縦なしだらのないもんだと思ってますけど。近世文学なんて私大嫌です。だから此娘《コレ》にもかぶれたりなんかしてはいけないって云って居るんです」
「中々むずかしい事ですネエ」
「斯うなんです。こないだ私がネ、ダヌンチオの『死の勝利』をよんでたんです、かして御らんておかあさんがおっしゃるからかしてあげたら『こんなものがこの頃はもてはやされるのかネエこんな事を書いてさ、だからこの頃の文学はいけすかない、第一かいて居る事からしていや味でサ』って云ってらっしゃったんです、だからそれででしょう?」
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 千世子は話があんまり前とつづきのないどう云う事からそんな話が起ったんだかHにわかりそうにもなかったんで説明した。
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「ああそれでなんですか。私になんかよく分りませんけど、生活状態が段々複雑になって行くにつれてすべて行われる日常の事が段々色で云えば濃い色になって行くらしいんです、犯罪と云う事もぜいたくさでもなんでもがたしかにそうだと思えます、そして人間の心理状態がこまっかい切子のガラスの様になって行くんです、だから感情は益々鋭敏になる筈で、感じる事書く事が皆色の濃い鋭いつっこんだものになって行くんです。従ってかなり古い時に生れた私達には想像する事の出来ない感情、事柄が文学の上にも現れて来るからあんまりあけっぱなしの様に思われたり刺撃がつよかったりするんでしょう……」
「そうでしょうかねえ、あの何とか云う人の『死の勝利』なんてまるで道徳を無視して居るじゃありませんか、それにサ、恋した女なら夢中で恋して居ればいいじゃありませんか、それだのにあんな自分の女をあっちこっちからのぞいてサ、一人でうれしがったり怒ったり、若い娘のよむはずの第一ものじゃないじゃありませんか」
「あの時もそう云ったんですけどネエ」
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 千世子はいくたび云っても甲斐のない事だと云った様な少しはなにかかった声で云った。
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「文学なんて云うものは道徳の上から見てもどっから見ても欠点のない、どんな人にでも見せてさしつかえのないものならそれはほんとうにととのったものには違いありませんけど、人間にはそう[#「そう」に「(ママ)」の注記]人はありにくいもんですものねえ、そいで又人には各々の特別な感情なり性質なりをもって居るもんですもの中々そう云う風には行きませんわ。孔子様の伝を書いても耶蘇の一代記を書いても、そりゃあ材料は欠点のないものですワ、どっから見てもネエ、けれ共、それを書いた結果が不成功だったら、ほんとうの純文学の価値はないでしょう。孔子の文を書いて出来の悪かったより、弁天小僧を書いた方が立派に出来て居たらその方が価値のあるものになるんです。泥棒をするんでもそのする時の感じがあります、他人の奥さんをよこどりする時にだってそれについて特別感情はあるにきまってますよねー、だからそう云うこまっかい感じをよくうがって字に書いてある感情が自分の心に入って来て自分の感情になってしまいそうになるほどに書いてあるんなら立派な創作として見る事が出来ます、そうでしょう、感じのよく出て居る文、考えさせられる深刻な文と云うのが純文学だと思ってます、そう云う事はほんとうにむずかしい事ですもんねえ、近松物を道徳の上から娘には見せられないものであっても純文学としては価値のあるもんですものねえ、私はどうしても純文学としての価値のあるものをよろこんでます、けど阿母さんは私の云う事は大不賛成なんです。けれ共私はそう思って居ます……」
「私はどっちをどっちと云いかねますねエ、近頃の小説は一寸もよんで居ずそれについて又深く考えた事もないしするんですから、ちょっくらちょいとは云いきれないものです、……」
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 Hは何か深く考えながら低い声で云った。千世子はそのはっきりしない答えが気に入らなかった。
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「じゃあんたはどう思っておいでなさる? 私の様にか阿母さんの様にかそれとも又別の……」
「私はごく平凡な事を思ってます。あんまり常軌を逸して居なければそんなにああこう云いやしません、世の中の事ってのは或る程度まで人なみにやって行くことが心要なんですから……」
「そう云うお考えなら私と阿母さんの間に入って好いお考えなんですねエ」
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 千世子は頭のすみに今日一日中考えた事のかすがたまってでも居る様に重い片っ方にかたむきそうに思われて来た。時計はもう二時すぎをさして居た。阿母さんは自分で話の問題を出して置きながらすみの椅子によっ
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