近いうちにきっと御目つけになれましょう、そうに違いありませんワ、自分のすべき事を真面目にして行く時に一人手に自分を待って居るものが見つかりますもの。
これから私達は救け合ってお互に幸福にだれにも似せる事の出来ない生活をして行かなくっちゃあねえ」
[#ここで字下げ終わり]
千世子はいつもとは人の変った様な調子でこんな事を云った。自分の頭の上が光って居る様に感じながら千世子はジーッとHのかおを見た。
[#ここから1字下げ]
「アア――神様……」
[#ここで字下げ終わり]
Hは目をつぶってうつむいていつまでも頭をあげなかった。
[#ここから1字下げ]
「貴方が私を忘れさえしないで下さればほんとうにその方が幸福かも知れません、私達は仲よくそうして考え深く――」
[#ここで字下げ終わり]
しばらく立って顔をあげたHはその白い千世子のすきな額と濃い髪を尊い様に見せながら口の辺に笑いをうかべながら云った。
二人は新らしい生命をうけた様にその日っきり今までお互に迷って居た事は忘れる事にした。
千世子はしんから迷わなくなった。
あけてもくれても真面目に輝いた目をしながら書いたりよんだりして居た。
Hには、忘られる様で忘られない千世子の顔を見ると、先に云った事をくり返したい様な気持になった。
女のとりすました、考えてばかり居る様な顔や目を見ては、
[#ここから1字下げ]
「もう忘れましょう」
[#ここで字下げ終わり]
と云った言葉に対しても又女の様子に対してもそれを再び云い出す事は出来なかった。
[#ここから1字下げ]
「時が来たら……」
[#ここで字下げ終わり]
Hはそればっかりをたのみにする様に思いながら前よりも繁く千世子の家へ出入りした。来るたんびに悲しい気持になりながら、
[#ここから1字下げ]
「でもまだ私をすきがっては居る、顔が青いとか頭が痛そうな目つきだと云って居た。
今はそれで満足して居なくっちゃあならない。時が来たら――」
[#ここで字下げ終わり]
とくり返して居た。
[#ここから1字下げ]
「時が来たら――」
[#ここで字下げ終わり]
心にくり返しながら、Hは源さんと云う人が居る――と思った事もあった。
[#ここから1字下げ]
「横どりされたんじゃああるまいか……」
[#ここで字下げ終わり]
源さんと一緒になれる様にねがいながら度々千世子の家に行った。
[#ここから1字下げ]
「今日は源さんも来てますワ」
[#ここで字下げ終わり]
と迎に出た千世子が云った日にHは目の辺りの筋をつめながら、
[#ここから1字下げ]
「そう、……」
[#ここで字下げ終わり]
と云って自分の体の囲りを見廻した。千世子は源さんよりもHによけい口をきき、
[#ここから1字下げ]
「この頃はほんとに変な気分な日ですワ、貴方頭何ともなくってらっしゃる?」
[#ここで字下げ終わり]
こんな事もきいた。
Hには自分も親切に案じながら同情しながら恋をしない様にとつとめ、そうすればきっと不幸になると云う女の心気持が分らなかった。
[#ここから1字下げ]
「やっぱりどっか母親の気持に似て居る、――」
[#ここで字下げ終わり]
Hはそう思うほか感情的な女でありながら先の事まで考えて居る女を解する事は出来なかった。
父親や母親が、
[#ここから1字下げ]
「一度ほかない一生だものネエ、出来るだけの事はするのがいいんだ、躰も心も健康になって行けば留学だってさせないとは云わないんだもの――」
[#ここで字下げ終わり]
と云う事も、千世子はただそれだけの意味にはきいて居なかった。
[#ここから1字下げ]
「恋にあくせくするほど平凡な女ではない。
もっと尊いものが私には出来る。
又きっと出来して見せる!」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は手を一つ動かすんでもそう思って居た。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
初出:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
※縦中横の章見出し中の漢数字が二文字になる箇所(「十一」以上)では、漢数字のみは縦に組まれています。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2008年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全48ページ中48ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング