た間から一番いいのをよった蓮花がのぞいて居るのが、千世子にはさしぐまれる様な気がした。
 二人の間にわだかまった事をときたいと云う様にそれからは出来るだけ陽気に天狗俳諧をしたりしてさわいだ。千世子のそんなに深く思って居ないらしい様子を見て母親は快く他愛もない事を書きつけて笑い合って居るのが、千世子には只自分のつとめた事が成功したと云う事のほかにうれしい事はなかった。
 そうしてねられなかった長い間千世子は母親と小供と小さな鼻をした女中の顔を見て涙ぐんで居た。そうして居る間パチパチと目をあいたりつぶったりしながら、妙に親しくなったHと自分の事を考えないでは居られなかった。
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「何にも私はHに恋をして居るんじゃあない、そうしてして居ないと断言する事が出来る。けれ共私はあの人に同情して居る、或る程度まであの人を信じて居る、こうやってはなれて居ても思い出す事もあるだけ彼の人は私の頭の一部分を領して居るに違いない。私達は不幸だと知りながらもはなれて居られないものになるかも知れない」
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 こんなに思いつづけて居る内にあんまり先の先の事まで又そんな事のない様にと思って居る事まで思ったのを恐れる様に耳をふさいで夜着の中にもぐりこんだ。
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「何! 不安心な事があるもんか自分さえしっかりして居ればチャンチャンと事はすんで行くにきまって居る、それに又若し二人が夢中になってしまったら私の望んで居る恋のどっちかが満足する様に出来上ったらそれでいいんだ。けれ共なまはんかな様子は必[#「必」に「(ママ)」の注記]してしてはいけない、私はどんな時にもそう思って居ればいいんだ。そうすりゃあ生きて居る中に恋なんかは大抵は出来そうもないけれどそれも又いい」
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 考えまいと思って居ながらそんな事を考えて居た。
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「アアア」
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 うす笑をして千世子はそのまんま寝入ってしまった。Hと二人で目に見えないものに深い深い谷に落とされた夢にうなされて起きた時夜があけはなれて居た。自分の先の事、又あってはならない先の事を見せつけられた様ないやな気持がして、ゆっくりとうねって居る海面と白い帆の思いなげにふくれて居るのを見て居た。
 その次の日もその次の日も千世子にはものうい心が二つに分れた様な気持になって暮した。つかれたらしい海にあきたらしいあくびをするたんびに、
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「私の顔も赤くなったしもう二十日より長くも居たんですもの帰ってもいい頃でしょう、あんまりこうやって居ると馬鹿になってしまいますもん」
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と自分と同じ様に他人ばかりの中に自分の二人の子供と又それ以外のいろいろの事を守って居なくっちゃあならない努力につかれた様な顔をして居る母親をつかまえては云って居た。
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「それもいいネエ、私ももう居るのにあきて来た、もう四五日にもなったら帰ろう」
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 何にも思ってなそうな女中までそれをきいた時うれしそうに、
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「お嬢さま、私ももうほんとうに……」
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と云った位であった。
 嫁いで来てから随分長い間世間を苦労して渡って来た母親も宿屋生活をしなれないんで、又気ぐらいの高い事や高くとまった心をもって居る事やで人に知れない苦しみがこの旅行にともなって居た。
 自分の若い娘をなるたけよく、きれいにととのったものに見せたいと思いながら又男達にふり向かれたり、何か云われたりするといかにも不安心な抱えて置きたいとまで思われるのであった。
 小さい子供は海には入りはすまいか、ころんで額にきずを作りはしまいかと云うとりこし苦労までたった一人で、御まけに少しは神経衰弱になって居る頭であれこれと気をくばる事はつらい又努めなければならない事であった。
 ほんとうを云えば千世子より前に母親は海にあきて居たけれ共本人が、つれて来た本人がいやだとも云わないのに又それほどよくも見えないのに帰ろうと云う事はあんまり不真面目な様に思って居た。
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「もうかえりましょう」
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と云うのを心まちにまって居た。
 東京に電話をかけすぐ一日置いた日に立つ事にきめてしまった。
 千世子はこっちに来る時よりよけいにうれしそうにして居た。目をまっくろに光らせて健康らしい気まぐれな顔色をして母の女中相手のはかどらない荷造りまで手伝った。その前の晩は目があいたまんまで一晩中すごしたほどはずんだ心で居た。
 丁寧な主人夫婦の礼言葉や子供達の御名残の言葉なんかは夢中にきいて電車に国府津までそれから汽車にのってしまった。
 ゆられながら
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