り三度なりかまわないでいらっしゃいな、キットネ、その内また近いところに行って見ましょうネ」
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 何もかももうきまったんだと云った様な調子に千世子は云った。
 ねてから目がさえた千世子は暮から今日までざっと四月の間の事をいろいろ考えて見た。大変に遠い事の様でもあり近い事の様でもあり、Hはすきな人でありながらきらいな人の様に思ったり「どうしたんだろう」と思うほどいろんな事が考えられた。「Hが私のそばに居る居ないは私の生活に一寸した変化を与えただけの事で何にもそれ以上に私に関係のある事じゃあない――」
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「Hは私がすきだと云う事より以上に進んでもしりぞいてもわるい人なんだキット。そう云う気がする。夢中になる恋なんてものは今の世の中にやたらにあるもんじゃなし、又そうでない恋をしたところでつまりゃあしない。顔一つ赤くしず考え深い目でお互の心を見合ってしずかな心で自然に接し詩を思い歌を思いして満足して居られるほどとびぬけてすんだ思想の恋仲かそれでなければお七の様にまじりっけのない夢中な恋ほかするものじゃあない、なまはんかのついちょっとの出来心なんかで必[#「必」に「(ママ)」の注記]して恋をしたりするもんじゃあない、そんな恋のあとにはきっとにがい見むくのもいやなほど見っともないしがいをおきざりにしてあかんベエをしてにげて行ってしまうにきまってる」
「私はどんな事があってもHを恋はしない、若しそうなったら二人は不幸になるにきまってる――私の心の眼もにぶり目っくされの様になってしまうだろうから……」
「あの人と私とはお互にたすけ合って幸福な様にして行けばそれが一番好い道なんだ。私は夢中な恋は出来ない――さりとても一つの様な恋も私のまだこんな貧乏な頭では及ばない事だからキット神様だってこの様に思ってらっしゃるんだろう……」
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 千世子はさえにさえにさえぬいた頭で斯んなに考えた、考え終るとかるく頭をふってまぶたをすこしすかしたまんままっしろなクッションの中に頭をうずめて聖徒の様なおだやかな清い眠に入ってしまった。
 翌朝目をさました時千世子は何とも云われないかるい歌をきいた様な気がして居た。
 学校に出がけにHはわざわざ寝間から出て来て、
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「もう行くんですか? 早いんですネエ、寝坊したんで今朝は一寸も話せませんでしたネエ、少しかおが青うござんすよ、何か清心丹か何かもつかのむかしていらっしゃい、ネ、一寸、お嬢さんに何かかるいものをもって来てあげて――」
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 わきに立って居た女中に云いつけて、
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「額を出して御らんなさい?」
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といかにも案じて居る様に云った。千世子は男の様に広い額を出しながら、
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「何ともありませんわ、熱なんかありませんわ」せかせかする様に云った。
 女中のもって来た銀丸をはの間につぶしながら、
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「あの御気の毒だけどまってるから御弁当をサンドウィッチにしてネ、少し気分がわるいから御はんをたべたくないから……」
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 女中は少し迷惑そうなかおをしながら茶碗をもって台所の方に走って行ってしまった。
 千世子は柱によっかかってHを見ながら、
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「ネエHさん、今日みたいな日にあんまりあなた私の事に気をつけて下さるもんじゃありませんのよ。わけはなくっても思い出されるもんですし、それに――いかにももう御別れだと云う様でいやですわ、」
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 こんな事を云って淋しい様な笑い方をした。
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「女ってものはかなり年をとっても一日でも家に居た人と別れるなんて云う事は大変きらいな何となく涙ぐむ様な気持になるもんですものネエ」
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 又すぐつづけて千世子は云った、目の中に何かがこみあげて来た様な気持がした。
 Hは一つ一つうなずいて居た、言葉に出しては一言も云わずに一番おしまいに大きくうなずくとかるいため息をついて笑った。
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「何故あの人はあんな引つれた様な笑い方をするんだろう」
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 Hの口元を見て千世子はチラリッと思った。
 千世子の感情の上に重いものがのしかかりのしかかりする様になって来た。敷石を靴のつまさきであるいた千世子は、Hの見つめる眼の中に自分が段々小さくなって行く様に思われた。
 にげる様に門の外に出てホッとした様にたいらに白く光って居る広い道をうつむきがちにあるいた。
 友達は皆、
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「貴方青いかおをしてらっしゃる」
「ゆうべよくねなかったとかおに書いてある」

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