、人間にはそう[#「そう」に「(ママ)」の注記]人はありにくいもんですものねえ、そいで又人には各々の特別な感情なり性質なりをもって居るもんですもの中々そう云う風には行きませんわ。孔子様の伝を書いても耶蘇の一代記を書いても、そりゃあ材料は欠点のないものですワ、どっから見てもネエ、けれ共、それを書いた結果が不成功だったら、ほんとうの純文学の価値はないでしょう。孔子の文を書いて出来の悪かったより、弁天小僧を書いた方が立派に出来て居たらその方が価値のあるものになるんです。泥棒をするんでもそのする時の感じがあります、他人の奥さんをよこどりする時にだってそれについて特別感情はあるにきまってますよねー、だからそう云うこまっかい感じをよくうがって字に書いてある感情が自分の心に入って来て自分の感情になってしまいそうになるほどに書いてあるんなら立派な創作として見る事が出来ます、そうでしょう、感じのよく出て居る文、考えさせられる深刻な文と云うのが純文学だと思ってます、そう云う事はほんとうにむずかしい事ですもんねえ、近松物を道徳の上から娘には見せられないものであっても純文学としては価値のあるもんですものねえ、私はどうしても純文学としての価値のあるものをよろこんでます、けど阿母さんは私の云う事は大不賛成なんです。けれ共私はそう思って居ます……」
「私はどっちをどっちと云いかねますねエ、近頃の小説は一寸もよんで居ずそれについて又深く考えた事もないしするんですから、ちょっくらちょいとは云いきれないものです、……」
[#ここで字下げ終わり]
Hは何か深く考えながら低い声で云った。千世子はそのはっきりしない答えが気に入らなかった。
[#ここから1字下げ]
「じゃあんたはどう思っておいでなさる? 私の様にか阿母さんの様にかそれとも又別の……」
「私はごく平凡な事を思ってます。あんまり常軌を逸して居なければそんなにああこう云いやしません、世の中の事ってのは或る程度まで人なみにやって行くことが心要なんですから……」
「そう云うお考えなら私と阿母さんの間に入って好いお考えなんですねエ」
[#ここで字下げ終わり]
千世子は頭のすみに今日一日中考えた事のかすがたまってでも居る様に重い片っ方にかたむきそうに思われて来た。時計はもう二時すぎをさして居た。阿母さんは自分で話の問題を出して置きながらすみの椅子によっ
前へ
次へ
全96ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング