った。つかまるものもつかまるものも皆自然に対する感謝と云うものばかりであった。心の中、体の中を感謝のかたまりにして入日の赤くなった空と、満潮に青さのました水面を見まもって、尊い、ととのった芸術的な顔つきをして千世子は時の立つのを知らずに座って居た。
 海のひろい胸は刻々にその鼓動が高かまって行った。さっきまで修道女の様なその胸の様な鼓動を打って居た胸は、その一息ごとに世の中のすべての悲しみと嬉しさと幸と不幸をすい、又はく様にたしかにトキーントキーンと打ち始めた。青さはその鼓動の高まると共にまして行った。
 若い処女が若い男の息の下に抱きすくめられたその瞬間の様な海のはげしい乱調子な鼓動はそのトキーントキーンと云う音を空の末地球全体にひびかせて千世子の前にせまって来た。
 それに答える様に、千世子のうす赤いふくらんだ胸の鼓動も乱調子にやがては狂いそうにまで打った。けれ共千世子は動こうとはしなかった。水はすぐ前によせたり引いたりして白い歯を出しては千世子の心をほほ笑んで又遠い青さの中に混って行った。
「こんなにまで苦しいほど私は自然に感じて居る事が出来る」と思った。千世子は身をおどらして青さの中に身をしずめて見たいほどうれしかった。
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「アーアア」
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 堪えられないほどみちた心になった千世子の躰はキラキラとやさしげにまたたいて居る砂の中にうずまった。砂は四方からサラサラ、……サラサラと響きながら千世子の身体をうずめて行った。
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「アアアア」
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 かざりのないいつわりのない千世子の心の声はしずかな空気に小器用な音波になってドッかに消えてしまった。
 迎に来た女中にひっぱられて気ぬけの様な顔をして千世子は宿にかえった。
 海辺に来たらしい気持のする食卓についてからもまねく様な潮なりに心をとられてまっかな箸の先にまっしろな御飯を一つぶずつひっかけてたべたりして居るほどであった。
 夜はかなり暗いあかりの下でほこりっくさい都になぐさめる人もない様にして一日の仕事につとめて居なければならないHのところに絵葉書に短かいたよりをしてやった。
 白い被いをすみから隅までかけて気持の好い夜着にくるまって潮の笑声を子守唄にききなして眠った千世子は六時に起きるまでにHの夢ばかり見て居た。
 寝床から出
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