まらなくうれしい様な事は一つもなかった、こんな事を思って居た。
[#ここから1字下げ]
「私が行く、皆がだまったまんま私のかおを見つめながら一人一人平手でソーッと丁寧に頭をなぜて行ってくれる。だまったまんま、かおを見、だまったまんま考え、だまったまんまお互の心がわかって笑う時に一所に声をあげて笑ったらさぞマアうれしい事だろう」
[#ここで字下げ終わり]
 帰りには仲の良いK子と一緒にかえった。少しつかれて居た千世子は電車の中でかるい目まいがしてK子によろけかかった。
[#ここから1字下げ]
「どうして?」
[#ここで字下げ終わり]
 K子はいつものふくみ声で内気らしくきいた。
[#ここから1字下げ]
「何ともないの、一寸」
[#ここで字下げ終わり]
 小さな言葉つきで云ってかおを見合せて二人は一緒に笑った、意味もなく無意識に出た笑い――それが千世子には今までになかった――家にかえってもわすられないほどの快さだった。
 それから毎日毎日千世子は考える事のない様なかおをして学校に出て四時頃かえっては本をよんだり書いたり、Hとうたをうたったりして暮して居た。

        (九)[#「(九)」は縦中横]

 三月の末Hの仕事がすんで蓬莱町の家にかえる様になった。その頃千世子は又頭の工合が一寸変になって居たせいか、やくにも立たない書きぬきに夢中になって毎日毎日かんしゃくをおこしながらあくせくあくせくして居た。机にとりとめもなく本を並べたててキョロキョロして居たり、いそがしくもないのにいそがしがって夜更けまで鉛筆をけずったりして居た。
[#ここから1字下げ]
「一週に二三度はきっと上ります近いんですものネエ」
[#ここで字下げ終わり]
 Hはあしたかえると云う日にこんな事を云った。
[#ここから1字下げ]
「そんな御約束はしない方がいいんですワ、もしそれが出来なかったら下らない気持にならなくっちゃあならず、御つとめで来る様になっちゃあ御しまいですワ」
[#ここで字下げ終わり]
 楽譜をうつして居た千世子はピアノの上にペンをなげ出して、うんざりした様にHの顔を斜に見て居た。
「何にも悲しむほどの事じゃあない」と思いながら気が重かった。Hはかわいた目をしてかたよせられた製図台と自分の買って来た花の鉢を等分に見て居た。
[#ここから1字下げ]
「つまらなくなったら一日中に二度な
前へ 次へ
全96ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング