《うち》の者の事を話すのがすきな千世子は肇にさえ変に思われたほど熱して真面目に云った。
 千世子は家の事を云う毎に必ず幸福だと云う。
 希望に満ち、喜びがあふれて居る、と云う。すさんだ家庭に幼《ちいさ》いから辛《つら》い目に会って来た肇はふっくりした、焼立《やきた》てのカステーラみたいに香り高い甘味のある、たっぷりのうるおいがきめ毎にしみ込んで居る千世子の家の人達に交ると云う事はなぐさめともなり薬にもなった。
 ホーム、スゥイート・ホームと云う言葉をしみじみと味わって見られたらなどと肇が云うと、母親はすぐ、
[#ここから1字下げ]
 貴方がお父様になれば好《い》い。
[#ここで字下げ終わり]
などと笑いながら云うと肇はフット笑いかけても唇をつぼめて苦《にが》い顔をした。
 母親はそんな事を不思議がって、
[#ここから1字下げ]
 あの人は過去に暗い影を持って居るんじゃああるまいか。
[#ここで字下げ終わり]
などと云ったけれども千世子には信じられない事だった。
 物がすぐ好きになる、物事に限らず人でもすぐ信じ易い千世子は肇を普《なみ》の友達としてこだわりのない気持で居たけれ共母親は深々と肇を観察して居るのが自分の為にだとは思いながら折々千世子に不愉快に思われる事もあった。
 静かに育った頭と上品な話し振で、家庭の辛い裡《なか》に育った人とは思われない様な調子であった。
[#ここから1字下げ]
「彼の人の様子や頭でそんな事は無いらしい。
 私はきっとない様な気がして居る。
[#ここで字下げ終わり]
 千世子はそんな事を母親に云いながらも神経質で美くしい口調としっかりした頭を持って居ながら馬鹿な下《くだ》らない事をして行方も分らない様になった知人の一人の事を思い出して思いがけない事のある人間の裡《うち》に肇も入って居るんだと思うと、もう一年もつき合って居たら思いがけない処から、思いがけないものが現れて来やしまいかと云う様な事が思われた。
 其の次肇の来た時、千世子はこの前の事を何にも云わなかった。
 肇も亦それについては一言も口に出さなかった。
 懐の裡に入れて来た肇の雑誌に千世子が読みたいと思うものが出て居たのでそれを見つけるとすぐ奪う様にして息もつかず肇を忘れた様に読み始めた。
 眼の奥が痛い様になるほどいそいで読んでフイと首をもちあげると不用意に千世子が昨夜《ゆう
前へ 次へ
全19ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング