を多く感じると思うのは誤りである。
笑いの影には悲しみが息づき歓楽の背後にすすり泣く悲しみがある。
悲しみなしの喜びは世の中に必[#「必」に「(ママ)」の注記]してない。
いかなる詩聖の言葉のかげにも又いかばかり偉大な音楽家の韻律のかげにもたとえ表面《うわべ》は舞い狂う――笑いさざめく華《はなや》かさがあってもその見えない影にひそむ尊い悲しみが人の心を動かすものであろう。
悲しみと云っても只涙をこぼすばかりの悲しみではない。
人は喜びの極点に達した時に或る一種の悲しみを感じる、その口に云えない悲しみが美の極点にも崇高なものの極点にもある悲しみである。
その口に云い表わされない悲しみの心に宿った時、口に表わせない尊いすべての事がなされるのである。
千世子は斯う思って必ず有ると信じる「尊い悲しみ」を愛して居た。
自分の絶えず心に思って居る事を思いがけない時に話されたので千世子はそれをかなりの間覚えて居たのだった。
けれ共自分の心から湧きあがった事でない限り一つ事をそういつまでも思いつづける事のない千世子なので久しい間とは云えじきに忘れて居た。
千世子は常々《つねづね》、頭の友達と、形の友達を持ちたいと思って居た。
頭脳の機関《からくり》が手早く働いてねうちのあるものを産《う》み出せる友達を持ちたがった。
けれ共その望は到底みたされ様にもなかった。
少し頭の細やかな、頭の先立って育った人達は或る時期にある特別に涙っぽい気持を持って世の中のすべての事の一端をのぞいて全部だと思い込む人達であった。
心の隅に起った目に見えるか見えないの雨雲《あまぐも》を無理にもはてしなく押し拡《ひろ》げて、降りそそぐ雨にその心をうたせる事を何の考えもないうちにして自《みずか》らの呼び起した雨雲《あまぐも》の空が自然の空の全部と思いなして居る人達だ。
そうして千世子は頭の友達に満足は出来なかった。
自分は奇麗にしずとも美くしいものを見、美くしい裡《なか》に生きて居たい千世子が友達に花の様な人のあって欲《ほ》しいと思ったのはそう突飛な事でもなかった。
千世子が自分から進んで交際[#「交際」に「つき合」の注記]をしたいと思うほど美くしいに[#「いに」に「(ママ)」の注記]は会えなかった。
たった一度千世子はフットした処でわけもなくただスンナリと美くしい人に会った。
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