え笹原さん?
 私が云って見ましょうか。
 家庭《うち》の事なんでしょう、
 それで考えていらっしゃるんでしょう、
 きっとそうですよ。
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 千世子はいかにも確信があると云う様に云った。
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「ええ、そうなんです。
 どうしてわかったんです?
 私はまだ一言だっていいやしません。
「だって私には分ります。
 大抵の人のなやむ事ってすからねえ、一時は――
 私だってそうでしたもの、
 久しい間ね私はいろんな下らない事に迷って居たんです。
 自分で恐ろしかった位ねえ。
「女の人ででもですか?
「そんな事は貴方《あな》た男だから女だからのって事はありゃあしません。
「そんなもんですかねえ。
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 肇はほんとうに沈みきった目附をした。
 そして小机が一つ置かれて居る陰の多い部屋とうす赤い盛花の色を見て居た。
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「おっしゃいな? いやなんですか?
「いいえ、でも何と云い出したらいいんだかわからないんでねえこまってるんです――が、
 私が一番辛い事に思ってる事は両親になつかれないって云う事なんです。
 年を取った親達はもうやたらに私をたよりにして居るのを見れば見るほど離れた気持になって来るんです。
 どんなにつとめて思いなおしても。
「両親からはなれた気持になる?
 小さい時に私も一時そんな事があったんですよ。
 どうしていやなのか?
って聞かれればわけははっきり云えませんけどねえ、明けても暮れてもいやに陰気くさい子で居ましたっけ。
 でも私はほんとうになおるもんだと思いますよ、
 今なんか私はそりゃあ打ちまけて母親にすべてを云える気持で居ますもの。
 両親にはなれた心を持って居るものの不幸な事なんかもこの頃は思ってます。
「どうなったってなおりゃあようござんすねえ。
 でも私はなおりそうにもありませんよほんとうに、国に帰るのがだからいやなんです。
 下の弟達が両親になついて居るのを見ると羨しさと憎しみが一度きに湧いて来るんです。
 なつかない私を見れば両親だって頼りない様な眼附をしますしねえ、
 女の母親なんかは私に気づかいさえして居るらしいんですもの。
「貴方が苦しいより以上にお母さんなんて辛い悲しい思いをしていらっしゃるに違いありませんよ。
 この頃になって私はつくづく思うんです、
 親の子供に対しての感情と云うものがどれだけ濃やかでどれだけ注意深い親切だかって事をねえ。
 それで貴方子供はちっとも親になつかない、
 まるで自分達にはなれた事だと思って考えて見たってハムレット以上の悲劇なんです、
 私達が書き表しにくいほど複雑した心理状態と悲しさがこもってますものねえ。
 だれでもがよくこの頃は親達を裏切った気持だって事を云います、
 思想の違って居る事やなんかで少し位の事はあるかもしれないけど裏切るほどの気持にだれでもがなるもんでしょうか。
 私は或る一つの悲しいいたましい『流行病《はやりやまい》』だって云うんですよほんとうに。
「じゃあ私もその『病』にかかったんだっておっしゃるんですか?
「そんな事どうだか私はわかるこっちゃあないじゃあありません。
 私はねえ、貴方にまるで同情がないんじゃあないんですよ。
 でも私は貴方にどうおつとめなさいとか斯うして御覧なさいとかっては云われませんからねえ。
 第一貴方の御両親がどんな方だかだって知らないんですもの。
「じゃあやっぱり私は今まで通りの気持で居なけりゃあならないんですかねえ。
 ほんとうは私の両親の考えやなんかがそんなにわかって居ないんですよ私に――
「そんなら貴方、今度お帰んなすった時に丁寧に親切にそして器用にお両親の頭をのぞいて御覧なさるといい、
 きっと何かの結果のある仕事ですよ、
 私は貴方が少しずつでもお両親に近づける様になるにきまってると思います。
 ろくに二親の考えもしらないで居て近づけないのなんのかんのってったってまるで食べずぎらいみたいじゃあありませんかほんとうに。
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 二人は何ともつかない笑声をたてた。
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「でも若し頭の中に恐ろしいものが居るのを見つけたらどうでしょう。
 そうしたらほんとにまあ私はどうだろう。
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 肇はいかにも先を見すかして目の前に恐ろしいものでも見た様な声で云った。
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「それがやっぱり分って居ないからなんですよ、
 実の生みの親で気の狂った人ででもなければどっから見てもどっからのぞいても恐ろしいものなんかの有ろう筈は有りません。
 そりゃあたしかですとも、
 若し恐ろしいとか何とか思うのは只自分の感情が間違って感じたと云うんですよ、
 はっきりしたたしかな心と眼で
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