と立ち止った。
「ナースチャ、忘れたろう?」
「なんです」
「ケフィールの瓶《びん》さ」
 幸いナースチャが平然と腕に下げている籠からビール瓶くらいのケフィールの空瓶を出して見せられる時はよいが、さもないと、ナースチャはまたはしごをのぼって、鍵をあけて、台所へ行って瓶をとって、また表の戸を閉めて、念のためいっぺん引っぱって見て、アンナ・リヴォーヴナの待っているところまで戻らねばならぬ。悪い時は、どうかしてアンナ・リヴォーヴナが扉のしめようを信用せず、
「いい娘だから、もう一度しっかり見ておいで。モスクワはソフィヤ村じゃないんだからね、三分間扉を開けっ放しにしておいてごらん、壁のペイチカまでさらわれちまうから」
と云う場合であった。ナースチャは戻らねばならぬ。三階まで二度往復せねばならぬことを意味するのであった。
 市場《ルイノク》には、村の市場より数倍の店と群集と、いろんな匂いとがある。市場のモスクワ式ごろた石の通路では、花キャベジの葉っぱ、タバコの吸殻、わら屑、新聞の切れっ端が踏みにじられていた。魚売店からきたなく臭い水がごろた石の間を流れた。市場の古いごろた石道はきつい日に照らされて表面だけ白っぽくかわいて見えても、石と石との隙間の奥にはいつも黒いぐしゃぐしゃした泥濘がある。ナースチャは時々、そのごろた石と石との隙間に靴の踵をかまれてよろけながら、眼をつき出し、愉快そうにアンナ・リヴォーヴナのあとから店々をのぞいて歩くのであった。
 頭上の大板へ葡萄《ぶどう》と林檎《りんご》を盛った男が、長靴を鳴らし人をかきわけてやって来た。女がその肩にぶつかった。
「ヘーイ、ヘイ! ばかやろう《ドゥーラ》!」
 いそいでよけた女の顔の前へ、てのひらにのせた鶏をつき出して、横歩きをしつつ髯の大きな男が熱心につばきをとばしてしゃべった。
「|奥さん《マーモチカ》、じゃいくらならいいんだね。見なさい。こりゃ本当のヒナですぜ、けさつぶした」
 赤い羽根付の帽子をかぶった女は止らず歩きつづけた。
「だから、もう云ったよ。八十五カペイキ!」
「もう十カペイキだけ! あんたにとってこれっぽっち同じじゃないか」
「同じなら、お前さん負けとき」
「わたしのを買って下さいよ、ね奥さん」
 更紗のプラトークをかぶった女が、その時やっぱり手に毛をにぎったひどくひねた鶏をのせ、人かげから、歩いてゆく女の前に現れた。
「ねえ、奥さん、本当の主婦《ハジャイカ》ならこれを見落しゃしませんよ、たった九十五カペイキ、お買いなさい奥さん」
 二人の鶏売りにはさまれ、女は怒ったように、
「駄目! 駄目!」
と叫んで一そう早く歩き出した。
「わたしは買わないよ、いらないっていったら!」
 行手にはもう別の人だかりがあり、鮭の切売りを見物しているのであった。
「ナースチャ!」
 肉売り店の前に立って少し口をあけ、面白そうにその様子を見ていたナースチャは、びっくりしてうしろを向いた。
「さ、これ」
 アンナ・リヴォーヴナは犢《こうし》の骨付肉を新聞でつまんでナースチャの籠へ入れた。
「駄目だよ。さらわれちゃ」
 女が二人ならんで足許の箱に玉子をひろげていた。ナースチャが来かかった時、年よりの方の女が、急にあわてて箱をもち上げ、
「来たよ」
とささやいた。あわててもう一人の女も箱を持ち上げ逃げるかまえをしたが、そちらを見て、
「籠をもってる」
 安心して、再び玉子の箱を元のように足許に下した。直ぐ巡査が現れた。巡査も買物で、ほかの群集の男女と同じに籠をぶら下げ、玉子売の隣で胡瓜《きゅうり》漬売の前にたたずんだ。ナースチャは顔を上に向けて笑った。市場は、陽気だ。
 リザ・セミョンノヴナも陽気でなくはなかった。
 リザ・セミョンノヴナは時々は夜も、台所へ入って来ることがある。
「ナースチャ、ちょっとじりじりやらせてね」
 爪磨《マニキュール》した彼女の手にアルミニュームの小鍋がある。小鍋に二つの卵とハムが入っている。アンナ・リヴォーヴナとリザ・セミョンノヴナがとり交した契約書には、モスクワの借室がたいていそうであるように台所は利用せぬことになっているのであった。セミョンノヴナでも、しかし時には、夜、茶と一しょに熱いものが食べたかろうではないか。
 台所の隅の腰かけに、昼間のせてあった金盥の代りに、いまはナースチャ自身がかけている。ハムをあぶりながら、リザ・セミョンノヴナは綺麗な水色の瞳で、じろじろナースチャを眺めて、云うのであった。
「ナースチャ、なぜおかっぱにしないの」
「わたし似合わないんです」
 リザ・セミョンノヴナの小料理は手伝うこともないので、かえってナースチャは間がわるい表情だ。
「きったことがあるの?」
「いいえ、伯母さんも似合わないというし、シューラも似合わないって云うも
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