きこむ。しかし、翌朝戸をあけ、露台へ出る時、ナースチャは挨拶を用意しているのだ。
 ナースチャは、夜十一時半までひのし[#「ひのし」に傍点]かけをした。最後のハンカチを終ったが、まだ火があった。ナースチャは今朝ほしたアンナ・リヴォーヴナの下着にひのし[#「ひのし」に傍点]をしてしまいたいと思った。けれども、建物の物干場は五階の屋根裏だ。しんとした階段と、物干場のがらんどうな湿っぽい大きさがナースチャを恐れさした。
 ナースチャは、忍び足でリザ・セミョンノヴナの戸へ近づいた。戸から燈火が洩れている。ナースチャは、そっとたたいた。
「お入り」
 リザ・セミョンノヴナは、まだ着物もぬがず、新聞から切抜をしていた。
「リザ・セミョンノヴナ、ごめんなさい、邪魔して。――わたし、物干場へ行かなけりゃならないんです」
 ナースチャは云った。
「でも……こわいんです」
「なぜさ」
「一番てっぺんなんですもの、それに、もう夜で、暗くて」
「アンナ・リヴォーヴナにそうお云い」
「|神よ《ボージェ・モイ》! わたしぶたれます」
 リザ・セミョンノヴナは急に両足で立った。
「さ、早く、早く!」
「ああ、ありがたい! リザ・セミョンノヴナ、あなたは本当に」
「いいから鍵とっといで、早く!」
 ナースチャがさきに立って階段をのぼって行った。足音が、夜のコンクリートの壁に反響した。小さい夜間電燈が各階の踊場についているだけであった。
「ごらんなさい、リザ・セミョンノヴナ、こわいでしょう、わたし、この間、あっちの建物の翼へ泥棒が入ったって聞いているから、一人じゃ来られないんです」
 夜じゅう、借室の下の入口の戸が開いているのは事実であった。木戸口は十二時にしまった。
 リザ・セミョンノヴナは、
「なんでもない」
と云った。
「陽気じゃないだけさ」
 物干場は五階目の登りきったところで、一つ、物干場の戸があるきりであった。上へ行く路はない。下へ、もと来た階段を下りられるだけであった。夜は凄い感じがした。ナースチャは、スイッチをひねってから鍵で、そのたった一つの戸を明け、自分とリザ・セミョンノヴナを入れたのち、堅くとざした。
 床には砂がしいてある。いく条も繩が張り渡され、その三分の二ばかりに物が干してあった。天井は低い。隅になにかの樽があった。ナースチャは、裾飾りのついたアンナ・リヴォーヴナの下着を
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