「バルザック」とレッテルの貼ってある白葡萄酒の瓶の横にそのコップがあって、オルロフ自身は山羊髯をなで、布張の椅子にいる。彼は目を離さずナースチャの顔を見て云った。
「ナースチャ、コップを洗ってくれるね」
「よろしい《ハラショー》」
「もしお前がこわしたら、くびり殺すからそのつもりでいなさい」
「…………」
「わかったか」
「わかりました」
ナースチャは、ぷりぷりしてコップを盆にのせるのであったが、心のうちでは恐怖を感じた。それを洗って元に戻すまで、オルロフの水のように冷たいねばっこい眼付がつけて来るような気がした。
リザ・セミョンノヴナとオルロフはすべてに正反対であった。例えばリザ・セミョンノヴナは室掃除のことでいつか小言を云ったことがあるだろうか。南京虫がくった朝だけ、リザ・セミョンノヴナは、
「ごらん、ナースチャ」
柔らかな肢《あし》でも手でも、赤くふくれたところをナースチャにつきつけて云うのであった。
「|恥しくないかい《ニエ・ストィドノ》」
アンナ・リヴォーヴナが寝室の戸棚へしまっておくミヤソニツカヤ通のおそろしい臭いの南京虫退治薬をまけと云うだけのことなのであった。
オルロフのいるうちに、なるたけ彼の部屋は掃除しなければならない。オルロフは室を去らず、ナースチャが机の上をいじっている時に、椅子の上から、椅子の下をはくときは衣裳棚の前に立って監視した。
「どうぞ御親切に、ナースチャ、その暦はインキ壺の右の肩のところへおいて下さい」
または、
「あれが見えないかね、可愛いナースチャ」
猫背のオルロフが水のような眼で見ているところは寝台の下で、鞄の端に一条の糸屑が引っかかっているのであった。
九
十二月になった。日が短くなって、モスクワには毎日雪が降った。
頭からショールをかぶったナースチャは脚の間に石油罐をおき、歩道に立っていた。石油販売所はまだ売りはじめない。雪の積った燈柱の下にトラックが一台いた。そのトラックと石油販売所の入口にかけて歩道を横切り階子《はしご》のようなものがかけられていた。トラックの上の男が石油の大きな樽をその階子にのせた。歩道にいる男がそれをころがして店へ運びこむ。石油販売所の内部は暗くがらんとしている。陰気な石の壁の上にも石の床にも石油のしみと臭いがある。トラックからおろす石油の樽も油じみて黒い。そ
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