を送り出すとアンナ・リヴォーヴナは頭をふりふり食堂へ戻った。夜、リザ・セミョンノヴナのところへ茶を運んだ時、ナースチャは、
「聞いて下さい。リザ・セミョンノヴナ」
例の、もう散らかりかけている小机の隅へ膝をついた。
「今日、なんて男が室を借りに来たか! なにか云うたんびに一々ちょっと失礼だの、ごめんなさいだのくっつけるんですよ、そのくせ、机が二寸長すぎてもいけないんだって!」
肌の綺麗な顔を少し反らせ、湿っぽくて臭そうなナースチャの綿繻子の前垂を眺めながら、リザ・セミョンノヴナはきいた。
「もうきまったの」
ナースチャは田舎女らしく目まぜをしてささやいた。
「アンナ・リヴォーヴナはちっともその男を好いちゃいないんです。ちゃんとわかってる。――でもお金があるんですよ、半年分払うんですって」
「ふうん」
「あの山羊髯!」
リザ・セミョンノヴナは無頓着に云った。
「いいさ、そんな男の細君になる女だってあるんだから」
出がけにナースチャが戸を開けると、廊下で鋸の音がした。
「なにがはじまったの」
「ごらんなさい、パーヴェル・パヴロヴィッチが机を二寸ちぢめているんですよ」
男は越して来た。台所に引っこんでいたナースチャが風呂場へ行って見たら、風呂場の壁へ特別彼用のニッケル製手拭掛と、歯磨ブラシ、コップなどのせるやはりニッケルの道具が取りつけられていた。男は自分用の茶碗を持って台所へ行こうとして小熊の剥製や帽子掛のある廊下でリザ・セミョンノヴナに出喰わした。猫背ですべるように歩いていた彼は、素早く歩を横に移して壁ぎわにより、ぴったり脚をそろえて立った。
「こんにちは」
「こんにちは」
行きすぎようとするリザ・セミョンノヴナを遮って、
「一分間《ミヌートノ》おじゃまさせていただきます。あなたもここにお住いですか」
「ええ」
「|それは結構《ラードノ》。どうぞあなたの美しいお手を――わたしはオルロフ、経済をやっています」
リザ・セミョンノヴナは手の甲を接吻させ、自分の名は云わず室に入って勢よく戸を閉めた。
オルロフはこれまでアンナ・リヴォーヴナの食堂にあった家で一番いいスタンドも借りて自分の部屋へ据えた。彼は二つの葡萄酒コップを持っていた。葡萄酒コップは茶がかった緑色で台にグリグリ飾のついた玻璃《はり》であった。朝ナースチャが、彼の茶碗に茶を入れて運んで行くと、
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