イズヴェスチャ」が老教授の膝の上にあった。彼は、水っぽくしなびた婆さんみたいな鼻のある顔で目の前の槭樹《ヤーセン》の梢を眺めている。槭樹はいま七月で、葉かげに青塗りの木造飛行機模型のような実の房を一杯つけているのであった。革命後十一年目――生活……学士院《アカデミー》――「イズヴェスチャ」第六面にСССР学士院で会員候補氏名が発表された。特殊技術部の候補者には、ゴスプランのグレブ・マクシミリアノヴィッチ・クルジジャノウスキー、歴史部ポクロフスキー、哲学部の候補にはブハーリン。今秋四十何人か全然新しい会員が選挙されるということに老教授は歓喜を感じ得ないのだった。ペチカたきの男しかコンムニストはいなかったのだ。教授は色のわるい平手で、ぐるりとまばらに髯の生えた自分の顔をなでまわして云った。
「……ふむ、今日は埃っぽくて、あまりぞっとしない天気だ」
「そうですとも」
 隣のカンヴァス椅子から、ねずみ色の肩かけを胸の上であわせた肥った女が答えた。
「だいたいことしの天気はお話になりませんよ。気候まで昔とはなんだか様子がちがって来た。こんな寒い夏なんて! 聞いたことがあるでしょうか。十度ですよたった!」
 彼女は心臓病で、一日この下宿のテラスに坐り通しているのであった。
 プーシュキン見学団は、のろのろ往来を横切り、エカテリナ宮殿のバロック式窓の外で半円を描いた。彼らが立って一せいに見ている往来に一匹犬がいた。犬も立ち止って見学団を眺めた。人通りが往来にふと絶えたので、遠くからその様子を見ると、見学団はさながらその犬について説明を傾聴しているように見えた。
 テラスの手すりに深くのり出してもたれ、笑いながらこの光景を見おろしていた一人の女が、声高に、
「ウラジミール・イワノヴィッチ、ちょっとごらんなさい」
と叫んだ。はげのこった髪をくりくり坊主のように短くして、太短い眉、あから顔の電気技師が女のそばへ行った。
「昨日の先生でしょう? あのわれらの大詩人プーシュキンをやっているの」
「どれ?」
 技師は、見出すのがよほど困難とみえ白粉の濃くついている女の顔のごくそばへ自分の青く剃った頬っぺたをもって行った。
「どこに?」
「そら、あの黄色いプラトークの美しい人[#「美しい人」に傍点]のまえ」
「ちがうらしいな。昨日の男は茶色のネクタイでしたぜ」
「かわいそうに!」
 女は、技師
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