右手を見ると、粗末な石垣のすぐそこから曇天と風とで荒々しく濁ったカスピ海がひろがり、海の中へも一基、二基、三基と汲出櫓が列をなしてのり込んで行っている。
風と海のざわめきとの間にも微かなキューキューいう規則正しい音が聞える。子供の時分ランプへ石油を注ぐ時使う金の道具があった。それを石油カンにさして細い針金を引っぱり石油をランプに汲み上げるときキューキュー一種の音を立てた。そっくりその通りではないが、それに似た音と、トン、トンと間《ま》を置く遠い音響が、自分の登っている櫓からばかりでなく数々の櫓の間から何処とも知れず聞えている。
この辺一帯は革命後になってはじめて穿鑿された油田だそうだ。「ウラジミル・イリイッチ油田」と呼ばれている。バクーの市から一番近い。掘りはじめは不成績であったので放棄する意見が技術委員会の大半を占めた、その時、数人の若い連中ががんばって遂にこんなに豊富な源泉に当った。案内している三十四五の技師はその逸話を話し、
「マア、我々の事業はこんな塩梅で進むんですな」
と、いかにも楽しげに人好く笑った。ここでは、海の中へ、中へと掘りすすむほど良質な石油が量も沢山出るのが特徴なのだそうである。
櫓から眺めると、風の中にはあっちにもこっちにも微かな音を立てて自動汲出しをしている櫓ばかりで、人影は大して見当らない。作業が機械化され労働者一人が大体十五の汲出櫓を持っているということである。労働者総数五万人、党員[#「党」に「×」の注記、底本の親本「河出書房 宮本百合子全集」で伏字を起こした個所]は千二百人。平均収入はその時分八時間で八十留。重い労働には六時間で牛乳が支給される。後でわかったことであるがドン・バスの炭坑でも、条件のわるい坑内労働はこの六時間交代、牛乳支給が行われているのであった。労働者生活改善費に今年は五十万|留《ルーブリ》を予算してあるとその技師は説明した。
「資本主義時代は平均十二時間、三十五留――韃靼人やアルメニア人は同じ労働で、半額が普通だったです。――」櫓を降り、変にポタポタと靴の裏にはりつくような地面を事務所の方へ歩きながら、その技師は、バクーの油田が無慮二百七十の大小会社によって無統制に掘りかえされていた時代の恐ろしい競争の状態を話した。
湧出道を奪うためにはあらゆる悪辣なことを平気でやりあった。従って汲出櫓一台当りその頃は二年間で二十五万留ぐらいの成績しか挙げられなかった。現在では一台が二ヵ月で八万留。二年にすれば凡《およ》そ九十六万留を掛取するようになったのだそうである。
「カリフォルニアの石油は広いが浅いのです。……もう十五年経つとアメリカはわれわれの石油を買いますよ、――いや、もうベンジンやガソリンは買いはじめている」
烈しい風に吹きとばされまいとして、私は外套のカラーを片手で頸のまわりに押え、技師の鼻先へ耳をつき出してそういう話をききとるのである。三人をのせた大型パッカードはバクーの市から十二露里隔った通称「黒い町」大油田へ向って矢のように走っている――。
四
坦々とした一条のコンクリート道が曇った空の下に高く堤防のように延びている。声が千切れてとぶほどの勢で自動車はその上を走り、行手も、来た方も不機嫌な灰色の空があるばかりである。
数露里行ったところで、はじめて一台の韃靼人の荷馬車をビュッと追い抜いた。幅のせまい、濃い緑、赤黄などで彩色した轎《こし》型の轅《ながえ》の間へ耳の立った驢馬をつけ、その轡《くつわ》をとって、風にさからい、背中を丸め、長着の裾を煽られながら白髯の老人がトボトボ進んで行く。――四辺の荒涼とした風景にふさわしい絵画的な印象であった。
やがて、地平線にゾックリと黒く林立する数百の汲出櫓が現れた。工場の煙突から煙を吐くだろうが、これは凝っと密集して光のない空に突き刺っている。現実にはこっちからその中へ進んで行っているのだが、感じは逆で、むこうが此方へ圧倒的にせり上って来るような凄じい気分である。
チラリとエメラルド色をした水が視野を掠めた。沼だ、そう思った時、コンクリート道がひろく一うねりして、眺望がひらけ、左手に気味わるく青いその沼と、そのふちの柵、沼になるまでの斜面に古い十字架がどっさりあって、そのいくつかが緑青色の水の中へこけかかっているのなどが見える。あとで訊くと、ザカウカサス地方の塩はみんなその沼からとれるのだそうであった。
そこを過て、帝政時代から建っているひどい労働者住宅の間を抜け、段々上り坂の道を自動車は速力を落して進んだ。黒石油だけが湧き出す油田というのを見た。主として重油、機械油、リグロイン(?)等を精製するのだそうであるが、その露天泉を眺めた時、自分は別府温泉の地獄まわりで坊主地獄と云ったか、それを思い
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