で同じ道を辿るので、一つ此処で、ぐっと方向を換えよう。バクーへ行こう。そこで、やや性急に自分たちのバクー行となったのである。

          二

 バクーへ着いて見て、自分たちは些かこれはしまったと思った。普通の暦でその日は金曜日に当ったからすぐ「アズ石油《ニェフチ》」へ行って油田を見せて貰えるつもりでいたところが、生憎その日はペルシアの日曜日――何かの宗教的祝日で、大通りの商店、事務所、すっかり表戸をおろしているのであった。
 仕方がないから、自分たちは目抜の通りへ出て地図を買い、通行人に交って街をぶらつきはじめた。すれ違う連中の八分通りはトルコ帽をかぶったペルシア人、韃靼《だったん》人である。耳の長い驢馬がふりわけに籠をつけて、小さい蹄に石ころ道を踏んで行く。バクーの市街の古い部分は五、六世紀頃から存在しているのである。
 大通りを行きつめたら、自然とカスピ海に向う、立派な遊歩道《プロムナード》へ出た。ペルシア行汽船の埠頭などがあり、暑いところのためか、あっちにもこっちにも派手な水色、桃色に塗ったビール・スタンド、泉鉱飲料店を出している。海面に張り出して、からりとした人民保養委員会《ナルピット》のレストランなども見えているが、どういう訳か遊歩道《プロムナード》には前にも後にも人が疎で、海から吹いて来る強い風に、コックの白上衣が繩につられてはためいている。
 海沿いの公園では夾竹桃が真盛りであった。わきのベンチに白い布で寛やかに頭から体をつつんだペルシア女が、黒い目で凝っと風に光る紅い夾竹桃の花を眺めている。ここも人気すくなく、程経って二十人ばかりのソヴェト水兵が足並そろえてやって来て、同じ歩調で夾竹桃の花のむこうを通りすぎた。
 どの小道へ曲っても、乾いた太陽と風とがある。
 粘土と平ったい石片とで築かれたアラビア人の城砦の廃墟というのへ登り、風にさからって展望すると、バクーの新市街の方はヨーロッパ風の建物の尖塔や窓々で燦めいている。けれども目の下の旧市街は低い近東風の平《ひら》屋根の波つづきで、平《ひら》屋根の上には大小の壺が置いてあるのなども見えるのである。渋っぽい、うるし[#「うるし」に傍点]のような匂いのする露路へ入ると、ぎっしり並んだ箱の蓋をあけたように種々様々の韃靼人の店があった。ロシア語で「食堂」と書き、あとは右書きの地方文字で看板をかかげた店などでも、覗いて見ると、店も住居もたった一つであった。奥に家族の寝台がある土間に床几と卓を並べ、燻る料理ストーブが立っているわきの壁に、羊の股肉とニンニクの玉とがぶら下っている。そういう風なのである。
 バクー名所の一つである九世紀頃のアラビア人の防壁を見物して、磨滅した荒い石段々を弾む足どりでイラ草の茎を片手にもって降りて来たら、わきの共同便所の前から十一二歳の少年の一団がやって来る。見ると真中の一人が、便所へおとしたその糞だらけの靴を当惑そうに紐でぶら下げ、片足は裸足のまま、軽く跛《びっこ》をひいて歩いて来る。それをとりまく少年たちは、いずれも真面目な心配を顔に現して、惨めな靴をのぞき込みつつ、大股に跟《つ》いて歩いて来るのであった。
 バクーの市街には、驚くほど古いものと新しいものとが入り混っている。自分はキルションの戯曲「風の町」を思い出し、この地方の住民が数世紀に亙って様々の形で行って来た支配権力との揉み合いの歴史を、深く思いやった。帝政ロシアの権力は、石油とカスピ海を眼目にこの都市を侵略した。一九一七年には、ペルシアの石油を我ものにしただけでまだ満足しない帝国主義イギリスとその同盟軍とに対して、バクーの労働者は生命を賭して戦った。石油が真に住民の富源となったのは、全くそれ以後のことなのである。
 夜ホテルの屋上で食事をしていると、暗いカスピ海の面に、イルミネーションをつけた船が三隻ある。艫からメイン・マスト、舳へと一条張られたイルミネーションは遠目に細かく燦めき、海面の夜の濃さを感じさせた。
 室へ帰って手帳に物を書いていたら、薄いカーテンに妙に青っぽい閃光が映り、目をあげて外を見ると、窓前のプラタナスに似た街路樹の葉へも、折々そのマグネシュームをたいた時のような光が差して来る。不思議に思って首をさし出したら、つい先が小公園であった。そこで野天映画をやっている。音響もなく人声もせず、ただ街路樹の葉ごしに、大きく黒く銀幕の上で動く人物の足の一部分が見えたりする。――軈《やが》てそれを観に自分たちも室を去った。

          三

 風がきつい。石油が細いピストンのようなものの間から吹き出して、私のブラウズの胸にかかった。おやと云っているまにもう風に散らされ、しみ[#「しみ」に傍点]が微かにのこったばかりである。汲出櫓の上に登っているのであるが、
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