な一員として参加しているのである。遠慮なく警告[#「警告」に傍点]してもよかったろう。
 責任を問うという意味での警告であるならば、おのずから区別の過程をふまえなければならないだろう。
 由紀子の背中の赤子は、何故圧死しなければならなかったか。ただ一つの「何故」ではあるが、この一語こそ、戦争犯罪的権力に向って、七千万人民が発する詰問としての性質をもっているのである。この「何故」は止めるに止めかねる歴史の勢をはらんで、権力が人民に強いた不幸の根源に迫るものである。何故、運輸省は今日の殺人的交通事情を解決しかねているのであろうか。その答えが、余り集約的に、今日の日本の破局的な各方面の事情を反映していることに、解答者自身おどろかざるを得まいと思う。この一つの「何故」への具体的な答えには、農林大臣が米の専売案を語り、それと全く反対に農林省の下級官吏は結束して大会をもち、食糧の人民管理を要求し、戦争犯罪人糺弾の人民投票をやっているという今日の事実さえも、包括されなければならないのである。責任を問うための警告的処罰であるならば、現政府の中に今もなおさまざまの名目の下に止っている戦争犯罪者、その協力者たちを、警告処罰すべきではなかろうか。私たち通常人の公憤は、そのように告げるのである。
 この不運な母子の一事件は、実に多くのことを考えさせる。日本の民法が、法律上における婦人の無能力を規定している範囲は、何とひろいことだろう。女子は成年に達して、やっと法律上の人格をもつや否や、結婚によって「妻の無能力」に陥ってしまう。婦人が人間として能力者である時間は、特別な結婚難の時代のほかは、本当に短いのである。ところが、刑法において、婦人はどう扱われているであろうか。刑法上、その行為の責任を負うに耐えないものとなっている事は、精神異常者その他人並の分別を一時的にしろ喪った者となっている。女子が、神経の弱い、社会的因襲による無智から常規を逸しやすいものとして、結論に当っていくらかの斟酌を加えられる場合は決して尠くないけれども、刑法は女子が人妻だからといって無能力者と規定してはいないのである。日本の婦人の置かれて来た立場の奇怪な矛盾は、私たち自身信じかねるほどである。民法と刑法とにおける婦人の地位というものは、このような悲劇的矛盾のままであるべきではない。
 日常生活の幸、不幸にかかわる民法にお
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