いたのしさをうちこわすものは何だろうか。交通地獄の恐怖である。検事局と書いた木札を胸にかけて、乗ろうとする粗暴な群集を整理するわけにもゆかない。一私人として立てば、やはり我身をもみくしゃにされ、妻を顧みて「おい大丈夫か」といい、子の名を呼んで「乗れたか?」と叫びもするだろう。人間の姿がそこにある。今日の、日本の人民の一員たる現実の姿が、よかれあしかれ、そこに現出しているのである。
そういう日常の生活をしている官吏たちが、偶々《たまたま》一人の若い母親とその赤子の上にふりかかった災難をとりあげて警告的処罰をしようと思い立った理由は、どこにあり得たのだろうか。常識ある万人の心が、その母と子とを気の毒と思う場合、その人が処罰の対象となったということで、人民はその人が気の毒だし、災難をうけた方が罪になるとは、さてこわいと、畏縮して、女子供の外出がへると思いつかれでもしたのだろうか。
由紀子という若い母が、どういう用向きで二人の子をひきつれて外出したかが記事の中に語られていないのは遺憾である。けれども、私たちは、自分で自分の必要とした目的のために、動く自由はもっている。交通機関が極端な殺人状態の昨今、ただの気保養に、二人の子をつれて山手線に乗る母は、およそ無いと判断して間違いない。一家の中の細々としたさまざまの用事は食糧事情の逼迫している今日、女を家庭の内部で寸暇あらせないと共に、家庭の外へも忙しく動かせる。どんな婦人でも、今の乗物には身軽こそがのぞましい。由紀子という人が、二人の子供を前とうしろにかかえて外出したということは、その一家に、留守番をしたり子供を見たりする人手の無いことを語っているのである。
警告を発するならば、先ず運輸省の不手際に対して発せらるべきである。更には、存在の無意義さによって解消しつつある厚生省が、社会施設として、それぞれの地区の住民に欠くべからざる托児所、子供の遊場をこしらえる力さえなかったことに向って、警告が与えらるべきであったと思う。日本婦人協力会というような、戦争協力者の集りのような婦人団体は、せめて彼女らが女性であるという本然の立場に立って、時間と金とを、そのような母と子とのために現実性のある功献に向けるべきであると、警告すべきであった。日本婦人協力会には、検事局の人々にとって殆ど内輪の、因縁浅くない故宮城長五郎氏夫人宮城たまよが主要
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