手洗場の水道の蛇口へ口をもって行って水をのんでいた辰太郎は、辰ちゃん! おやいないのか、と云っている井上の声をききつけた。ね、確にそうでしょう? 火事があったんだね。辰太郎は、走ってその穴のふちへ行った。井上は、ガラスの円い蓋つきの器を片手にもっていて、その穴の壁に沿ってついている焼灰の中から、こげたススキの一かたまりを、その器の中へそーっと入れている。辰太郎を見て、井上がこの竪穴ではどうも火事を出したらしいよ、と云った。こんなに灰があるし、このススキなんかは多分屋根だったのが、燃えおちた跡なんだろうね。
火事のあった竪穴。ここで火事が出た。辰太郎は何だか気持が瞬間変になったほど、ここに群れていた大昔の生活を自分の身に近く感じた。これまでは、云わば標本のように古びて動かない遠方において感ぜられていた全体のことに、火事という活々と身近い出来ごとが、ここにもあったときくと、俄にはっきりとした生活の息吹が通って来た。どんなにみんなが騒いだだろう。叫んだり、馳けずりまわり、稲の束をかついで逃げたり、どんなにみんながびっくりしただろう。その光景を思いやると、辰太郎は何だかひどく可愛そうになった
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