らまで道路を開鑿《かいさく》したりしないうちに、今のこの景気の波がすぎてしまいやしないかという不安は、絶えず碌三の念頭にある。碌三にとって、猛之介がもったいらしく述べるような金儲けの哲学も、つまりは持地が三倍もの価でうれた当今の人間の腹からこそひとりでに出る※[#「口+愛」、第3水準1−15−23、397−13]《おくび》のようなものだと、余りいい気持でもきけないわけである。
 ふいと興醒めたような気になって、碌三は鋏の音たかく、二三ヵ所仕上げのようなことをし、まあ、こんなとこかね、と、椅子をはなれて、バットの箱へ手をかけた。弟子の良太が白い布をとってやると、猛之介は伸びをするように手脚を張りながら、洗面台の方へ行った。

 丹前のふところ手で、苅りたての頸筋のあたり、剃りたての顎のあたりに軽い風をうけながら猛之介は改正道路を、うちの方へ横切った。荒物屋の日除けの鉄棒のところへ何か下っていたので見ると、それは夜間英語教授という広告であった。昼間働いて夜だけ勉強したい方は、僅の時間で英語の進歩する教授を御利用下さい。その荒物屋の家内は猛之介がよく知っている。英語なんかやる人間はない筈だ。そうしてみれば、誰かがたのんで、ここの店先へ札を出して貰っているのだろう。誰も、彼も、その向き向きで儲けようとしている、と猛之介は考えた。そして、それは極めて当然のことと思えた。儲けられるところをいくらかでも儲けないものは要するにうとい人間だし、そのたのしみがあってこそ、人間は動いているのだ。
 身代を大きくした猛之介の祖父さんの由兵衛という男は畦の由兵衛という綽名で呼ばれて生涯を終った。自分の田の畦、畑の畔から野良道へ出るとき、由兵衛はいちいち草履の底をこそげて一かたまりの土でも自分の家の土を、どこのどいつでも歩く道へ持ち出さないようにした。田の土、畑の土、それは金と汗のかたまりの土、往来の泥とはまるでちがう財産ということを由兵衛に子供のうちからきかされて育った。ひどく擲《なぐ》られるのは、いつもうっかり藁草履の底をこそげずに、畑から道へとび出したときであった。
 時代が変って、草履の裏につく土さえ外へ持ち出さなかった心がけとは反対に、今は、ふっくりとした武蔵野の黒い土の厚みを、二重に剥がして、土からの儲けを考えるようになって来ている。猛之介はこの知慧については自分に満足を感じている。土地を売買するときには面積を云って厚みを云わないところに、猛之介の目がついて、今度昭和合金との間に話がはじまりかかると早速そこへ人夫を入れて、表面の土をならし一間ぐらいの深さにこそげとって、その下のかたい赭っぽい土のところで、一町歩売りわたしの契約をした。猛之介は、こりゃ双方仕合わせでした、と云った。あんたの方も重い機械を据えつけなさって、じき土台がめりこむような畑土じゃこまるだろうし。
 こそげた土は、鮮人人夫が毎日働いて、敷地のずっと西端れの沢の近くの凹地へ運んだ。売れた土地はこのようにして地下げされ、売れない方の土地はこのようにして地上げされて、やがては買い手のつくようにされたのである。地下げしても、昭和合金の敷地は改正道路と全く水平だし、昔は一帯の小高い丘陵をなしていたその辺を開鑿して通してある道路の方から登って来れば敷地の端れはそれでもなお、大人の身丈より高い位置に、地層の断面を見せてはいるのであった。
 マーブル荘という窓枠の桃色ペンキで塗られてあるアパートの新築工事を少時《しばらく》立って見ていて又ぶらり、ぶらりとかえりながら、猛之介は余り浮かない気分である。けさの新聞に、凄い土地の暴騰として、事変前の十倍に上ったという地価のことが出ていた。それに比べれば、昭和合金へ売った地面は寧ろやす過ぎたようなものだ。整理組合がなまじっかあるものだから、どうも個人として腕いっぱいの仕事がしにくい。役員の過半が、奥手へ土地をもっている連中なのが、やはり暗黙に邪魔しているとも思える。遠慮して素通りさせるがものはねえ、といった心の底にはわが身の前を素通りしているものがあるという気持からだったのに、碌三にまで勘ぐられたのは心外であった。

 西北の一角を切りくずしてしまえば、それで昭和合金へ売った土地の地下げは終るという日のことであった。裏の苗畑につかう堆肥のところにいる猛之介を、女房のセキが表の方から、父さんどこけ? とうるさく呼びながら、さがして来た。そういうとき猛之介は決して、ここだぞウと返事はしない。縞の前垂をかけて小さい丸髷に結ったセキが、ああなアんだ、そこけ、と近づいて来るのを猛之介はこちらに立って見据えていたが、セキは又どういうものかきょうはいつものように顔の見えたところから大声でがなって来ず、すっかり猛之介のそばへよるまで黙っていて、しかも四辺を憚る気配
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